2008年7月17日 (木)

袖の下

 ある大手メーカーの下請けをしているKさんの話。

 彼は、某車両工場内で、われわれがふだん乗っている地下鉄やJRなどの車両の一部を作っている。法人組織にはしているが、プレイングマネージャーの社長と、熟練工5、6人の零細企業。

 同じような下請け数社で受注合戦になるらしいが、最後に勝負を分けるのは発注担当者とのコミュニケーションの濃淡。情報をいち早く聞き出したり、便宜を図ってもらったりするには、それなりの苦労がある。

 「でも最後は現ナマなんですよ。」
 とKさんは恐ろしいことをサラリと言う。仕事をもらう見返りとして、数パーセントの謝礼を発注担当者に渡すらしい。

 「それは公務員だったら賄賂ですよ。そんなお金をもらったら、むこうの会社でも服務規程違反になるんじゃないですか?」
 「いや、会社は見て見ぬふりをしてるんです。発注担当だけじゃないですよ。検査担当にも渡します。検査は何十項目もあって、ちゃんと付け届けをしておかないと意地悪されて検査が通りませんから…」

 Kさんの会社は、こうしてオモテに出せない交際費がかかる。そしてこれはみんなKさんのポケットマネーから出る。中小企業の社長は大変だ。

 今どきの言葉でいうと”パワハラ”。昨今は訴え出る場も用意されているが、でもまさかケンカまでする勇気はない。こんな人を、ボクは他にも何人か知っている。

 「来月はお盆でしょ。盆暮れにはまたプラスαが必要なんです。」
 今年は不況で夏のボーナスが減るらしいが、会社以外からこうやってせしめる輩もいる。こんなことがまかり通る世の中は、どうもおかしい。

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2008年7月15日 (火)

一斉休漁

 お昼に回転寿司屋に入った。

 ひとり客はカウンターに案内される。

 「お飲み物は?」
 「お茶でいいです…」

 2この店は、一皿105円から525円まで、それぞれ皿の色が違う。タコやイカは105円だが、タイは210円、穴子は315円、大トロになると525円。平日の昼のこと、さすがに高級ネタには手が伸びない。

 隣の先客は初老の夫婦。生ビールで顔を赤らめつつ、高そうな皿を積み上げていく。あとで入ってきた女性グループはビールのミニグラスを楽しみながら、美味そうにウニを平らげた。

 そういえば今日15日は、全国一斉休漁だとか。原油高のために国内漁業は「漁に出れば出るほど赤字」という状態が続いている。

 漁船の燃料となるA重油が5年間で2.7倍に上昇して、漁業経営を圧迫している。全漁連が水産庁に燃料費補填などを求めていたが、その窮状を訴えるための抗議ストライキらしい。

 消費者の関心が漁業に向けられたとすれば、デモンストレーション効果はあったかもしれない。しかし原油高騰の被害者は漁師たちだけにあらず。彼らの要求だけに耳を傾けるのも片手落ちだし、補助するだけでは根本解決にならない。

 これからは魚も値上がりするかも。そうなると回転寿司といえども、今までみたいに気楽には食べられない。最後の一皿は、奮発するかな… 回る皿を見ていると、目が回る。

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2008年7月12日 (土)

教員採用

 大分県の教員採用をめぐる汚職事件で、関係者が逮捕された。教育界でも金やコネがものをいうらしい。

 さらに驚いたのは、現職の先生が不正を働いていたということ。テレビのニュースで贈賄側の女性校長が映っていたが、ふつうの良識ある先生の顔だ。我が子可愛さのあまり、事の善悪の判断ができなくなってしまったのか。一人につき 200万円が相場だそうで、この人は長男と長女を教員にするために 400万円もの大金を県教育委員会幹部に渡したと報じられている。

 いったい学校の先生というのは、そこまでしてなりたい職業なのか。とくに親が教員である場合には、その思いは格別らしい。地方に行くと、教員一家というのは一目置かれる名士名族なのかもしれない。

 不正合格者が出た場合、当然その犠牲で不合格になった受験者もいる。何年もたってから「実はあのとき合格していました」といわれても、今さら時計の針を戻すこともできない。また不正合格を取り消すにしても、当の本人が不正の事実を知らなかった場合は気の毒というほかない。こういう事件は、過ぎ去った時間と既成事実の壁が重くのしかかって、修復が難しい。

 国家試験や公務員試験は厳正であるべし。文科省の全国一斉調査が始まったが、また他の自治体でも同じような話がないことを祈りたい。

 人の心は弱いもの。不正は起きるものと考えたほうがいい。そしてこれを防ぐためには、システムの構築が大切。お金を預かる金融機関などは二重三重の牽制体制を巡らせている。一部の幹部だけで採用や人事を決めるのではなく、外部の有識者も含めた選考委員会でも作ったらどうか。

 夏休みを前にして、教育現場が揺れそうである。

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2008年7月11日 (金)

氷山の一角

 次々と出てくる食品偽装問題。賞味期限の改ざんから食べ残しの使い回し、産地の偽装…など。

 こういうニュースを見ていて、いつもこれは氷山の一角ではないのかと疑う。どこでもやっていることがたまたまバレて大きく報じられてしまったのか、それともこの会社だけの特別な事件なのか、いったいどちらなのだろう。

 もしみんながやっていることならば、今さら大騒ぎする話でもない。謝罪会見を見ていても、アクの強そうな社長が「誰がタレこんだのか…」とやり場のない悔しさをかみ殺しているのが分かる。反省しているというよりも、身の不運を嘆いているようにしか見えない。

 スピード違反や信号右折でたまたま最後尾のクルマが捕まるのと似ている。違反には違いないが「何でオレだけ…」という気持ちが強く出てしまう。

 マスコミは鬼の首を取ったみたいに騒いでいるが、幸いにしてこれまで大きな健康被害もない。

 みんなが守っていないルールはたくさんある。われわれは一人の消費者としてもっと賢くならないといけない。同じ法律違反といっても、絶対に許せないことと、どちらかというと許せないことと、どっちでもいいこと。新聞の活字はみんな同じ大きさだが、これを自分の尺度でキッチリ計れるようになりたいものだ。

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2008年7月 9日 (水)

ケータイ時代

 長女の学校は今、期末試験のまっ最中。

 今どきの子供のこと。昨日の試験中に、ある男子生徒のカバンに入っていたケータイが突然鳴り始めたらしい。即刻、先生から退出を命じられたのはもちろんのこと、今回の期末テストは全科目0点という重い処分が下されるという。

 長女の学校は中高一貫で、平均点の8割以下の生徒は高校に上がれない。1学期の期末テストで全科目0点となれば、挽回するのはまず無理。そうすると彼は、外部受験をしなければならない。自分の不注意とはいえ、あまりにもその代償は大きい。

 2ヶ月ほど前の教育再生懇談会で、小中学生のケータイ所持を禁止(またはその機能を一部規制)すべしとの議論があった。若者によるケータイを使った犯罪の増加を受けて、教育的視点からのメッセージである。

 しかし今や、公立小学校でも6年児童の4割近くがケータイで通話やメールをしていて、中学3年にもなると、それが7割を超えるというアンケート結果がある。小学生でも日常的にケータイを利用する時代。ここまで浸透してくると、有害と決めつけて隔離するよりは、認知して使いこなすための準備教育を進めるべきではないか。ただ禁止するだけでは問題は解決しない。

 ボクは機能を制限した子供用ケータイを普及させるのがいいと思う。

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2008年7月 3日 (木)

落書き

 フィレンツェの大聖堂に、日本の大学生が落書きをしたことが大騒ぎになっている。

 大聖堂の柱や壁に、自分の名前や大学名、日付などを油性ペンで書いたとか。近ごろの大学生というのは、オツムは幼稚園児並みらしい。旅行先で開放的になったにしても、つまらないことで恥を世界中に晒すことになった。

 歴史をひも解けば、日本の落書きの代表格は「二条河原落書」。七五調の名文で、権力に反抗して時勢を風刺するエスプリが輝く。

 ボクが子供の頃、大阪には「街の天狗」なる憂国の士がいた。大きな事件や事故が起きると、街頭に見舞金を添えた警世の口上書を張って回った、翌日には「また天狗が出た!」とマスコミが書き立てる。その魂のこもった檄文は、子供心をも感動させたものだ。

 それに引きかえ、名前のようなクダらないものを、しかも消えない油性ペンで堂々と書くという幼稚な自己顕示欲は、とうてい理解できない。書くならせめて、ジョークや洒落っ気が欲しい。なるほどと大向こうを唸らせるような日本人の矜持を保ってもらいたい。

 驚くのが、当のイタリアではこれがあまり問題視されていないこと。国の文化遺産が陵辱されたというのに、いっこうに気にとめる気配もない。たしかにイタリアの古代遺跡はスプレーだらけ。どうやら、落書きには寛容な民族らしい。

 気質の違いといえばそれまでだが、逆にイタリア人が京都の清水寺に落書きでもしようものなら、大ブーイングは必定。政府を通じて抗議ということにまで発展しかねない。

 お隣の中国では、北京五輪に向けて国際イメージを高めるために「六大非文明現象」をなくす運動をしている。この6つとは、大声で騒ぐ、タンを吐く、ゴミを捨てる、列に並ばない、だらしない服装、そして落書き。

 モラルは日本が上だと思っていたが、どうやら大差ない。

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2008年6月27日 (金)

恥の文化

 30年ぶりに『菊と刀』(ルース・ベネディクト)を読んだ。

 著者はアメリカの人類学者。ボクたちの学生時代には必読書とされていたが、今読み返しても視点は斬新で色あせていない。この本には多くの反論もあるが、それは一流の証しでもある。

 彼女は欧米の「罪の文化」に対して、日本文化を「恥の文化」と名づけた。恥の文化は恥から受ける苦しみを道徳の原動力にしている。

 つまり「恥ずかしくて世間に顔向けが出来ない」「生きて虜囚の恥かしめを受けず」「恥を知れ!恥を!」というような価値観が、戦前までの日本の文化や行動様式を支えてきたというのだ。

 しかし最近は、恥というものに対する意識が明らかに変わってきている。羞恥心など薄れるばかり。クイズ番組などを見ていると、常識のなさを恥ずかしいと思うどころか、逆にそれを売り物にする若いタレントが増えてきている。

 小学生でもわかるような簡単な問題にも答えられない。でも悪びれる様子もない。ベネディクトが生きていたら、きっとあきれ果てるにちがいない。

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2008年6月23日 (月)

死に神

 「永世死刑執行人 鳩山法相 またの名、死に神。」

 こう書いたのは18日付朝日新聞夕刊の1面コラム「素粒子」。宮崎勤死刑囚らの死刑執行に関連して、鳩山法相の執行数が 93年8月の再開以降で最多となったことを批判したものだ。

 もう開いた口が塞がらない。三流のゴシップ週刊誌にあらず。天下の朝日新聞である。その影響力や半端ではない。

 鳩山法相は会見で、
「執行された方々に対する侮辱。彼らは死に神に連れて行かれたのとは違う」と不快感を示し、
「マスコミは(執行数を)野球の打率のように論評するが、私は粛々と正義の実現のために法相の責任を果たしている。
人の命を絶つ極刑を実施するのだから、私も心境穏やかではないが、社会正義のために苦しんで執行した。
恐ろしい事件を起こした宮崎死刑囚にも人権も人格もある。軽率な文章だ」
とコメントしている。

 どれだけ苦渋の選択であったか、その心中を察すべし。しかしこのハンコを押せないならば、法相の任を受けてはならないのだ。

 死刑廃止についてはさまざまな議論がある。ボクは条件つき存置論者だが、その話はここでは触れない。

 現在のわが国の刑法では、死刑を選択しうるのは殺人罪など一定の凶悪犯罪に限られている。検察官は事件の重大性や社会的影響、更生の可能性などを総合判断して死刑を求刑する。被告には腕利きの弁護士がついて、長期にわたる慎重な審理を経て最終判決に至る。これを最高裁までくり返す。そして誤判の可能性に対しては、再審の道も開かれている。

 そこまでして、死刑判決が確定するのだ。これを粛々と執行するのは、行政府の長たる法相の任務。死刑にするしないは裁判所が決めることで、法相の権限にあらず。つらい職責だが、形式要件が整っていれば決裁する義務がある。

 しかるに、歴代の法相はこれを避けてきた。職務怠慢というほかない。死刑制度を廃止するなら刑法を改正するしかないが、圧倒的多数の日本人は存続を望んでいる。 

 ボクは彼の政治信条を支持するものではない。しかしこの件ばかりは、精神的葛藤に耐えて勇気を奮ったことを評価する。それなのに、彼を『死に神』呼わばりするとは何たることか。およそ感性がずれた人権論者。ペンを持つ者のおごりとしかしか言いようがない。

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2008年6月18日 (水)

続・無差別殺人

  あの阪神淡路大震災は、被災地に大きな爪痕を残した。直接被害に遭われた方はもちろんのこと、間接的にも幾多の人生にさまざまな影響を与えた。場合によっては生死を方向づけるようなこともあったかもしれない。テニスで真っ黒に日焼けした長女の顔を見ながら、ときたまそんな義母の話を思い出す。

 ボクは30歳のとき、日航機墜落(昭和60年)現場の近くに1週間ほどいた経験がある。戦場さながらの阿鼻叫喚の生き地獄で、人の命の儚さを知った。さらにその10年後、今度は自分自身が地下鉄サリン事件(平成7年)に遭遇して、救急車で病院に搬送された。幸いにして一命をとりとめたが、人の生死を分けるのはほんのわずかな偶然にすぎないことを、身をもって感じた。

 今回のアキバの事件にしても、朝元気で家を出て行った人が、突然の災難で人生の幕を閉じられて、冷たい骸となって無言の帰宅をする。あの電車に急いで乗らなければ、あの店でもう少しゆっくり買い物していたら、待ち合わせの友達がもう少し早く来ていたらと、もしもの連鎖はキリがない。

 それも運命だと片付けるつもりはない。

 しかし逆にボクのように、紙一重で助かった人たちもいるはずだ。死に損なったおまけの人生。あんまり肩肘張らないで、気楽に生きようじゃないか。ボクはいつも、そんなことを思っている。

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2008年6月17日 (火)

無差別殺人

 東京・秋葉原で、白昼痛ましい事件が起こった。

 通行人や買い物客が襲われて、多くの尊い命が奪われた。犠牲になられた方やご家族には慰めの言葉もないが、ニュースを見ていて、ちょうど7年前の大阪教育大付属池田小での惨事が頭をよぎった。犯人の「何もかも嫌になった」という供述も似ている。しかしそんな気まぐれで、何の罪もない人までが巻き込まれたのではたまったものでない。

 7年前に話を戻すと、あの被害者児童たちは当時小学2年生で、長女と同い年。生きていたら中学3年である。

 ひょっとしたら長女も、あの事件に巻き込まれていたかもしれない。

 人間の運命にはさまざまな偶然が重なる。
 ボクが会社を辞めて大阪に戻ってきたのが平成7年の春。ちょうどその年1月の阪神淡路大震災のために、大阪の住宅事情は極端に悪化していた。阪神間や北摂で賃貸マンションを探したが、震災直後でどこにも空きがない。それで結局H市になったのだが、もし北摂に居を構えていたら、付属池田小あたりを受験していたかもしれない。そうすればひょっとして…  

 東京の義母が、いつもそんなことを言っては胸をなで下ろす。(続く)

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2008年6月16日 (月)

タクシー接待

 霞ヶ関の感覚は、世間の常識からはだいぶズレている。

 深夜にタクシー帰宅する財務省の役人が、車内でビールやおつまみの接待を受けていたらしい。調べてみたら、職員の15%に当たる300人以上が恩恵に浴していたとか。

 マスコミは言語道断だと、舌鋒鋭く書き立てる。調べたらきっと他の役所でも、続々と同じような話が出てくるに違いない。

 でもこのニュースを聞いたとき、ボクは腹も立たなかった。むしろ「何てチープな…」と気の毒な気がした。いやしくも明日の日本国の青写真を描く高級官僚たちが、残業帰りの狭いタクシー内で行儀よく缶ビールを飲んでいる姿など、いじましくて想像もしたくない。また、そんな些事に目くじらを立てる人の気が知れない。

 ボクも若い頃、週に1、2回はタクシーで帰宅していた時代があった。管理職の机の引き出しにタクシー券がしまってあって、自分の判断で使っていいと言われていた。

 残業で遅くなって電車がなくなる。でも忙しいときは気持ちが高ぶっていて、まっすぐには帰れない。日付が変わる頃から夜の街にくり出して、タクシーで我が家にたどり着くのは夜中の1時、2時。

 そんな生活を続けていたから、タクシーにはずいぶんお世話になった。でも缶ビールを出されたことは、タダの一度もない。もし提供されたとしても、車内では飲む気もしなかったと思う。

 タクシー業界を監督する国土交通省の「ビールやおつまみならサービスと考えられるから違反にはならない」というコメントが、いかにも役人臭い。

 レベルの低いやりとりで悲しくなる。天下国家を論じる人間は、気宇壮大な志を持つべし。遊ぶなら豪快に。日本丸の舵取りさえ違えなければ、少々のカネを使っても誰も文句は言わない。

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2008年6月13日 (金)

ペーパーレス

 新しいシュレーダーが事務所に届いた。このペーパーレスのご時世に逆行するようなシロモノといえなくもない。

 電子政府化の推進とやらで、役所もこのところ電子申告、電子申請などペーパーレスが大流行り。

 上場会社の株券も来年1月から電子化される。大会社では、毎月の給与明細書や源泉徴収票などを社内メールで自動配信しているらしい。

 もうサラリーマンを辞めて14年も経つと、最近のオフィス事情にはトンと暗い。でも現役バリバリの知人によると、近ごろではペーパーレス会議なるものがあって、印刷した紙の資料など配布せずに、大画面や個人端末の画像で説明するらしい。

 たしかにそれで充分だろう。ボクなんかは、会議のたびにヤマほど資料を配られるのにいつも閉口する。その場で捨てるわけにもいかないし、持って帰ってもまず読むことなどない。

  最近のパソコンソフトはダウンロード版というのがある。送られてくるライセンスキーを使って、自分でダウンロードしてインストールする。冊子のマニュアルも付いておらず、パソコンの画面でPDFファイルを開ける。カタチのあるモノを買うという従来感覚からすると何だか頼りないが、今どきはモノではなく情報にお金を払う時代なのだ。

 それなら完全なペーパーレス化ができるかというと、残念ながらボクはまだそこまでいかない。5千枚単位で買うコピー用紙も繁忙期なら1ヶ月ももたない。毎日何百枚も資源をムダにしているようで、いささか心苦しい。

 でも急な電話で資料を探すとき、パソコンを開くよりも紙のファイルをパラパラめくるほうが早いのだ。数十ページもあるマニュアルにしても、PDFファイルよりも本の形式のほうが使いやすい。まだ当分は併用になるだろう。

 ちなみに、この新しいシュレッダーで裁断できるのは紙だけでない。CDもフロッピーもクレジットカードも粉砕できるのだ。やはり時代は動いている。

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2008年6月12日 (木)

ガソリン高騰

 今月に入って初めての給油。

 レギュラーガソリンが1リッター172円。60リッター近く入れたら1万円札で足りない。やっぱり高い。かつては90円を切っていたこともあったから、この10年ほどで倍近くに値上がりしたことになる。

 それでも、ガソリンスタンドの粗利は増えていないという。売値と仕入れ値の差はわずか10円ほどらしいから、そこから人件費や必要経費を捻出して黒字を出すのは並大抵ではない。

 値上げで客足が落ちたのも響いている。なじみのスタンドも閑古鳥で、手持ち無沙汰のアルバイトが3人がかりで窓ガラスを拭いてくれる。いったい誰が儲けているのだろうと、店主もため息をつくばかり。たしかに大阪市内でも、最近スタンドの廃業が増えてきた。

 マクロで見ると、サブプライムローン問題に端を発した金融不安が広がって、投機マネーがいっせいに原油市場に流れ込んだのが原因。

 原油高騰の影響はガソリンだけにとどまらず、あらゆる分野で値上げの引き金になる。そして企業のコストアップは価格に反映されて、そのまま家計に重くのしかかる。

 いくら掘っても原油など出てこない我が日本こそが、世界に先がけてエネルギー政策転換の旗振り役を果たすべきだろう。

 日本の省エネ技術は世界最高水準にある。欧米では日本製のハイブリッド車が人気を集めている。さらに言えば、クルマの規制も新しい時代の方向かもしれない。ヨーロッパでは、公共交通を充実させて、街の中心部へのクルマの乗り入れを制限している都市もある。

 原油もいつかは枯渇する。太陽光や風力、バイオ燃料は現時点ではコストが合わないものの、そのうち原油と価格が逆転するかもしれない。そろそろ本気で考える時期が来ている。

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2008年6月 7日 (土)

きれい好き

 日本人のきれい好きは有名らしい。

 まず、お札(紙幣)がこんなにきれいな国は少ないと思う。ユーロに統一されてからは知らないが、以前のフラン紙幣はクシャクシャで汚かった。さらに触れる気もしないのが中国の人民幣。屋台でお釣りに出てくるシミだらけの少額紙幣など、臭くてポケットにしまう気もしない。

 日本のATMで紙幣を入金するとき、ちょっと折れたくらいで読み取れずに戻ってくることがある。その度に中国のお札を思い浮かべる。おそらく半分くらいはアウトに違いない。

 タクシーも世界一だ。いつも運転手が丁寧に磨いていて、キズひとつない。たまにはマナーの悪いドライバーもいるけれど、商売道具をピカピカにするのは見上げたプロ根性だと感心する。

 公衆トイレも総じて清潔。もちろんコマメに掃除するからだが、使う人のマナーもいいのだろう。大手商社の駐在員に「ここで用を足せるようになると一人前です」と言われて、一度だけ上海の公衆便所に入ったことがある。およそ筆舌に尽くしがたい衛生状態で、眩暈がした。

 今の世の中、「抗菌」やら「除菌」をうたった商品であふれ返っている。加工食品には殺菌剤が混ぜられ、畑の農薬や家畜のエサにも抗生物質が配合されている。

 しかし、今その日本人が細菌から逆襲されている。あまり神経質になって細菌や寄生虫をなくしてしまうと、かえって免疫力や抵抗力が低下して、風邪を引いたり感染症にかかりやすくなるらしい。

 海外旅行先でコレラにかかるのは、日本人が多いそうだ。大腸菌O157による食中毒事件で重症になったのは、無菌状態で育てられた子供たちだった。

 人間の身体は、ちょっとくらいの細菌なら免疫というシステムで撃退する。ところが最近の抗菌グッズの氾濫は、細菌に弱い体質を作ってしまった。何やらそれも皮肉な話である。 

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2008年5月29日 (木)

戦力外通告

 野茂がロイヤルズから「戦力外通告」を受けた。誰が考えたのか、胸にグサリとくる厳しい言葉である。

 日本人メジャーリーガーの草分けだった彼も、もう39歳。往年の球威は衰え、フォークにも切れがない。無残に打たれる姿を見ていると、ユニフォームを脱ぐ時期も遠くはないだろう。

 それにしても、あの茫洋とした風貌と性格。芸能人顔負けのキャラクターで、引退後も引く手あまたのスポーツ選手たちが多いなかで、いかにも不器用で、お世辞にも世渡り上手には見えない。他人(ひと)ごとながら第二の人生が心配になる。

 海を渡って15年近くなるのに、彼が英語を話すのを聞いたことがない。覚える気もないのだろう。近鉄時代から無愛想で、グランドの外では余計なことを言わない選手だった。いくら好投しても黙して語らず。かといってイチローのような気難しさもない。アメリカ人からすると不思議で、オリエンタルマジックなどと言われたこともある。

 かつて「平成の名勝負」とされた清原との対決で、彼はほとんど直球しか投げなかった。変化球で打ちとっても良かったはずだが、あくまで真っ向勝負に固執した。三振かホームラン。ファンサービスというよりも、それが彼の美学だったのだろう。「愚直」という言葉が誰よりも似合うピッチャーだった。

 当時の仰木監督は「胃がキリキリした。でも彼らから戦う情熱を奪ってしまうとプロ野球がつまらなくなる。ファンも喜んでいることだし、自分が口出ししないほうがいい」と述懐していた。同感である。

 ヒーローたちが次々と表舞台から消えていく。かつての柔道ニッポンの顔だった井上康生と野村忠宏。最後まで鮮やかな一本勝ちにこだわり続けた彼らは、燃え尽きて北京の切符を逃した。

 スポーツ選手は、勝負師であるとともに芸術家であってほしい。たとえ時代の潮流から外れていても、美しく勝つことを追い続ける選手たちをファンはいつまでも忘れない。

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2008年5月28日 (水)

改姓

 たいていの女性は結婚すると苗字が変わる。

 愛する人と同じ姓を名乗れる喜びと、長年使い慣れた旧姓を捨てることの寂しさ。ちょっと複雑な気持ちに違いない。

 夫婦別姓が言われて久しい。肝心の民法はいっこうに動く気配がないが、通称使用を認める職場が増えたり、戸籍や住民票の婚外子表記が変わるなど、別姓をめぐる環境は変わりつつある。

 しかし、ボクはどちらかというと夫婦別姓には積極的に賛成しない。姓名のうち、名は個人の呼称だが、姓は家族の呼称(family name) 。家族の呼称なのに、夫婦で別々というのはどうも納得しかねる。

 それに子供ができたら、別姓だといずれかの姓を選ばねばならない。親子で姓が違うのも混乱するだろう。結婚を機に新しい姓を作る改姓制度を主張する人もあるが、それだと実の親との関係がややこしくなる。

 先日、高校の同窓生数人で食事をしたときに、誰かが卒業生名簿を持ってきた。女の子(という年でもないが)の苗字の後には、カッコ書きで旧姓が書かれている。男が独身かどうかは判別できないが、女の子はすぐに分かる。

 旧姓のままの女性がいた。「彼女は独身なのか?」と誰かが聞いた。「いや違う」とまた誰かが答える。たまたま同じ姓の男性と結婚したため、姓が変わらないらしい。そのために彼女は、同窓会の自己紹介では必ず既婚であることを付け加えるとか。

 なるほど。さまざまな気苦労をする人もいるものだ。

 姓と名との相性もあるだろう。織田さんと結婚する麻里さんとか、原さんと結婚する真紀さんとか、水田さんと結婚するマリさんなどは困らないのか。ついつい要らぬ心配をしてしまう。

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2008年5月27日 (火)

禁煙

 神奈川県で、すべての公共的施設が禁煙になるらしい。学校や病院、交通機関などはもちろん、飲食店やパチンコ屋、雀荘などの娯楽施設も対象だそうだ。

 しかし、この全面禁煙というのは少しやり過ぎだと思う。

 最近、受動喫煙の害が指摘されるようになったが、これは適切な分煙によってある程度回避できるはず。そして喫煙者にはマナーを徹底させて、喫煙エリアや喫煙ボックスを設置すればいい。わずかな煙でも発ガン要因になるというが、そこまで言うのなら工場のばい煙や自動車の排気ガスはどうなるのか。

 どうもタバコに対する魔女狩りのような迫害に思えてならない。また単に臭いがキライだというのは感情論。酒も臭いし、ニンニクやクサヤはもっと臭い。

 タバコが身体に悪いことはみんな知っている。禁煙運動や喫煙マナーの向上も声高に訴えてもらって結構。 しかしこれまでタバコも重要な税源になってきたし、嗜好品として認知されてきた。それをいきなり、手のひらを返したように全面禁煙というのもあんまりだろう。

 将来的には、アヘンや覚醒剤のように全面禁止するのもいい。しかし、それならもっと時間をかけて、今や少数派となった喫煙者の人権にも配慮しつつ、共存しながら段階的に縮小していくべきではないかと思うのである。

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2008年5月15日 (木)

改名

 今月から「後期高齢者医療制度」がスタートした。

 肝心のお年寄りからは不満タラタラ。医療現場も混乱していて前途多難のようだ。

 この「後期高齢者」という呼び方がいかにも失礼だということで、厚労省は「長寿医療制度」に変更すると発表した。しかし問題の本質は名前ではなくて中味のはず。このところの一連のドタバタを見ていると「仏作って魂入れず」の感が強い。

 役所には、名前を変えたらいいと思っている人たちが多いらしい。

 かつての「痴呆症」は、今では「認知症」と呼ばれている。「痴呆」には侮蔑的な意味合いが含まれているというのがその理由。しかし「認知障害」とでも言わないと「「認知症」だけでは何のことやら分からない。言葉狩りの結果、意味不明な日本語が増殖するのには辟易する。

 つい先日の週刊誌で、「聾(ろう)学校」を「聴覚支援学校」と改名しようとして、聾学校の生徒や関係者が反発しているという話を読んだばかり。ハンディを克服して前向きに生きようとしているのに、「支援が必要な人」というレッテルを貼られたことでプライドが痛く傷つけられたという。

 言葉、特に差別用語というのは難しい。しかし言葉は意思伝達の道具であって、言葉そのものには何の責任もない。重要なのは、その言葉を発する当人が、そこに差別的な意味を含めるかどうかである。

 改名はダメだとは言わないが、改名したからすむという話ではない。

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2008年5月13日 (火)

ローカルルール

 毎日のように車を運転していると、他の車のナンバープレートが自然に目に入る。

 登録の区分でいうと、大阪市内は「なにわ」、府下の中北部は「大阪」、南部は「和泉」と分かれていて、このうち「和泉」ナンバーというのはあまり評判が芳しくない。

 しかし10年以上大阪で車を運転していて、とくに「和泉」ナンバーだけが行儀が悪いとも思わない。みんな一緒だ。大阪では信号無視に近い右折や直進、強引な追い越しは日常茶飯事で、これでよく事故が起こらないものだと感心する。

 ボクは信号が青に変わっても、絶対に最初には飛び出さない。無謀な直進車や右折車がいないとも限らないからだ。交通事故を裁くルールに「信頼の原則」というのがあるが、さしずめ大阪では「不信頼の原則」。つまり「相手が赤信号で停まるはずだ」という信頼ができないから充分に注意する。そのため事故にならないという不思議なことになっている。

 「ジャフメイト」4月号に、ローカルルールの話が出ていた。もともとローカルルールとは、ゴルフなどで公式ルールブックに記されたもの以外の独自のルールのこと。

 ところがそれが交通ルールにもあるというのだ。

 たとえば松本市には「松本ルール」なるものがあって、右折車が直進車を差しおいて右折するらしい。城下町で狭い道が多いため、渋滞を解消するために生まれた慣行だというが、旅行者には恐ろしい。

 他にも右折車が割り込む愛媛県の「伊予の早曲がり」、黄色信号で加速して交差点を通過する「名古屋走り」、進路変更でウィンカーを出さない「福井走り」などが紹介されていた。

 最近怖いと思うのは高速道路でのパッシング。本来は後続車が追い越すときの合図のはずだが、先日首都高で前の車がパッシングしながら左に寄っていくのを見た。運転していた知人に聞いたら、あれは「お先にどうぞ」という意味だという。近ごろ東京では、対向車同士や側道から出入りする車に譲る側がパッシングすることが増えてきたらしい。でもイラチな大阪だと、たいてい「先に行くよ!」という反対の意味。お互いが逆の意味に解釈したら大事故になりかねない。。

 これからはナンバープレートに注意しなければ…

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2008年5月 9日 (金)

ケータイ世代

 帰りに駅で長女と待ち合わせ。

 赤い大きな「ラケバ」(テニスラケットが入る大きなラケットバッグ。ここに教科書や文房具などを一緒に入れている)を背負って、右手にケータイを持って現れる。TシャツにGパン姿。制服がないから、学校帰りとも思えない。

 いちおう校内ではケータイの電源はオフにしておくのがルールらしい。だから校門を出るときにメールを送ってくるが、絵文字が多いから解読するのに骨が折れる。

 肩を並べて駅からの帰り道。夜空を見上げて「明日は雨かな~」というと、「まさか…」とケータイを操る。

 電光石火の早業で、天気予報を調べているらしい。
 「うん 夕方から雨か…」
 部活が気になるとみえる。

 ボクは通話とメールくらいで、ケータイでネットにつなぐことなどまずない。ところが子供たちは、プロフにブログ、ホームページの閲覧、電車の乗り換え検索、ケータイSNS、ゲーム、音楽、小説…と実に利用範囲が広い。そんなものパソコンで調べたらいいじゃないかと思うが、ケータイだとその場ですぐに答えが出る。

 大雑把にいえば、パソコンからインターネットに入ったボクたち世代と、ケータイからインターネットに触れた子供たちの世代では、ケータイとの距離が違うし、そこからつながっていく世界の魅力も異なる。

 自分がインターネットを始めてから、まだ10年も経たない。一念発起して家電店でパソコンを買ってきて、OSのネットワークやモデムの設定などに苦労しながら、ようやく接続できたときの喜び。まだあの頃のパソコンは手間ヒマのかかる高価なオモチャで、それを通じてしかネットには入っていけなかった。それが今どきの若者たちときたら、物心ついた頃からケータイを触っているから、ネットにも何の抵抗もない。

 「野球どうなってる?」
 「調べてあげようか…」

 せめてこれくらいはできるようにならなければと数年前から思っているが、老眼も進んできたし、前途多難である。

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2008年5月 4日 (日)

もったいない

 新聞報道によると、船場吉兆が、鮎の塩焼きや天ぷら、刺身のツマなど、客の食べ残しを他の客に使い回していたらしい。

 こういうことは、他の店でもやっているのだろうか。
 つい先日出席したある会合を思い出した。出席者が20人ほどの座敷の宴会で、平均年齢は50歳半ば。行儀よく座っているのは始めのうちだけで、宴たけなわにもなると、席を動いてあちこちで注しつ注されつ。品数が多すぎるということもあるが、後半の料理はほとんど手付かずのまま。ご飯や香の物に至っては誰も箸もつけない。

 締めの挨拶を聞きながらふと横を見ると、人数分のデザートはまだ盆の上。これは多分再利用するのだろうなと思っていたら、今回の騒ぎである。

 オーナーの目が届く個人経営の割烹なら、ある程度は大目に見よう。しかし大店を構える老舗料亭でこれが常態化されていたとしたら、客への背信行為でしかない。「使えるものはすべて使う」というトップの指示だというが、組織ぐるみでマニュアル化されているところが何とも気味が悪い。

 健康被害がなければ、法的責任は問えないらしいが、一人何万円もする高級料亭であってはならないことだと思う。

 もったいないと思うのなら、残りは客に持ち帰らせるとか、調理場で食べたらいい。

 ちなみに「もったいない」とは仏教用語の「物体(もったい)」を否定する語。物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しむ気持ちを表し、現在では「物の価値を十分に生かしきれず無駄にする」行為を戒める意味で用いられる。

 使い回しで物の価値は生かせても、もてなしの心は失われている。その代償はあまりに大きい。

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2008年4月24日 (木)

光市母子殺人事件

 光市母子殺人事件の差し戻し審で、広島高裁は元少年に死刑判決を言い渡した。

 「極めて真っ当な正しい判決」だと思う。従来の量刑より厳罰化されたというが、これがむしろ世間の常識感覚に近い。もちろん死刑の適用は慎重でなければならないが、この事件こそ、その残虐性や社会的影響からして極刑以外ありえない。

 本村さんの会見を見ていて、いつもながらそのまま活字にできるような理路整然とした話しぶりに感心する。愛する妻子を惨殺された人が、9年もかかって極悪非道の犯人の死刑判決を勝ち取ったのだ。ふつうなら、涙、涙で言葉にならない。「墓前にどう報告しますか?」などと問われたら、こらえていた感情が堰を切って泣き崩れてしまうだろう。

 この冷静さは何なのか。彼は広島大学工学部から新日鉄に入った技術畑の人だそうだ。ボクは理系出身の弁護士を何人か知っているが、感情に左右されず客観的に物事を判断できるというのはもって生まれた資質かもしれない。

 それに比べて、あの弁護士団の愚かさはどうか。自らの功名心のために真実を歪め、わずかに残された少年の更生の道をも閉ざしてしまった。これが彼を死刑に追いやった一因だとしたら、その罪はあまりにも大きい。

 差し戻し審は、弁護団の主張をことごとく退けた。意味不明な言動や二転三転する供述については「荒唐無稽で到底信用できない。起訴後6年半以上経過して、急に新しい供述を始めたのは不自然。この弁護団ならという思いから、被告の心に芽生え始めていた反省の気持ちが消えてしまった。新供述は死刑回避のための虚偽供述で、酌量すべき事情を見いだす術がない」とし、「自分の犯した罪の深刻さと向き合うことを放棄し、死刑回避に懸命になっているだけで、謝罪の態度とはほど遠く、反社会性は増進した。極めて自己中心的で、18才になったばかりの少年であることを考慮しても極刑はやむを得ない」 と断罪した。

 近代刑罰はもちろん応報ではないが、「司法が社会正義の実現である」ことをはっきりと世に示した胸のすくような判決である。

 時期も時期。来年から裁判員制度が始まる。もし自分が選ばれでもしたらと考えると、改めて責任の重さに身が引き締まる思いがする。

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2008年4月15日 (火)

入学金

 千葉県のある県立高校が、入学金の未納を理由に新入生2人を入学式に出席させなかったという。

 この2人は事後に入学金を納めて入学を許可されたらしいが、新入学の門出の式典に出席させずに別室で待たせるなど、あきれて言葉も出ない。もう少し教育的配慮ができなかったのか。

 まず親の顔を見たい。9万円の納付金が安いとも思わないが、わが子が頑張って公立高校に合格したのなら、子を持つ親としたら生活を切り詰めてでもその程度の入学金は工面するはず。しかもその親はすぐに納めに来たというから、払えないワケではなかったのだ。忘れていたのか、払う気がなかったのか。そうだとしたら言語道断。親の責任やモラルなどあったものではない。

 昨今、給食費の未払いが全国的問題になっているが、文部科学省の調査では児童生徒の1%に当たる10万人が給食費を払わず、全国でその総額は22億円に達するという。さらに未納者の6割は、払えるのに払わない保護者だというから二重の驚きだ。

 あるアパート経営者から、家賃も払わないくせに外車を乗り回している困った入居者の話を聞いたばかり。まったくバランス感覚が崩れているとしか思えない。

 学校の対応もおかしい。規則に従った処理だというが、入学式に出席させないなんて荒業は最後の手段だ。金貸しでもそんなアコギな真似はしない。事前に親に連絡して警告できなかったのか。私学ではないのだから、やむを得ない経済的事情がある場合は特例措置を講じてもいいと思う。

 「法匪」という言葉があったのを思い出した。杓子定規で頭が固く、法律の文理解釈にこだわる連中のことだ。バカ正直に法律を守ることで、結果的には法益を侵害していることに気づかない。

 今回の事件でいちばん気の毒なのは2人の生徒たち。心に刻まれた傷は終生消えないだろう。

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2008年4月11日 (金)

ケータイ

 090-ではじまる11桁のケータイ番号。

 これが覚えられない。自分のケータイ番号を訊ねられて、いつもあたふたとケータイを開けている。覚えられないというよりも、覚える気がないのかもしれない。

 若い頃は、よくかける会社や親しい友達の電話番号はいくつか宙で言えた。今は固定電話でもケータイでも電話帳機能があるから、覚える必要がない。鍛えないと筋肉が落ちるように、使わない脳細胞は退化する。

 漢字は読めても、悲しいほど書けない。何でもパソコンやケータイで変換するから、ペンを持って字を書く機会が極端に減った。年賀状に短い添え書きをするくらいでも、妙に疲れてしまう。

 車に乗るとカーナビがあるから地図を広げることもない。いずれは自動走行で目的地まで連れて行ってくれるようになるのだろう。

 時間になれば風呂が沸くし、朝起きたらエアコンがついている。朝食まで勝手にできている時代は近い。 かつては人間がしていた仕事がどんどん機械にとって代わられていく。その余った時間やエネルギーをわれわれはどこに向けるのだろう。

 ケータイを家に置き忘れてきて、何もできない自分に気づく。これでパソコンがフリーズでもしたらもうお手上げだ。

 必要なことを自分でする習慣をつけることが大切だと、精神科医はいう。毎日、写経している人は、手が経文の流れに沿って動いている。文字が頭に蓄積されているので手が勝手に動くのだそうだ。

 いったん楽をしてしまうと、なかなか元には戻れない。機械化やITの進展というのは、われわれ怠け者にとっていいのか悪いのか、奇妙なことを考える今日この頃である。

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2008年4月 1日 (火)

新入社員諸君

 今日は4月1日。毎年この日の『新入社員諸君』という新聞広告を楽しみに読んでいる。数年前から執筆は伊集院静。一時期、倉本聡が書いていたこともあった。

 しかし、誰が書いてもあの人にはとうてい及ばない。ボクが勤めていた会社の大先輩だった山口瞳

 一度だけエレベーターでお目にかかったことがある。軽く会釈したら、恥ずかしそうに頷かれた。どこにでもいるちょっと照れ屋のオヤジ風で、抱いていたイメージとのギャップに戸惑う。同じ時期に宣伝部の黄金時代を作ったという開高健の豪放磊落さとは好対照。

 しかし、その文章はエスプリの塊。豊富な経験を散りばめながら、飄々と人生を語り、大人の酒の飲み方を教える。懐は深いがけっして迎合はしない。若人の夢に耳を傾けながら、奢りを戒め、失敗を慰める。先輩風を吹かすわけでもなく、嫌味や押しつけもない。そんなスパイスあふれた上質の書きぶりにはいつも唸らされたものだ。

 いつだったか、品行と品性の違いについての一文。

「品行は多少悪くてもいいが、品性は正しくなければならない」 向島の芸者の前で高級官僚が裸踊りをするのは品行が悪いだけだが、取引先に自宅の購入資金をせびるのは品性が下劣である。

「下手でもいいから、行儀よくやれ」という言葉もあった。気取る奴。背伸びする奴。知ったかぶりをする奴。上司に阿る奴。やたらと横文字をやたらに振り回す奴。出入りの業者や後輩に威張る奴。こういう輩は行儀が悪い。

 逆に行儀のいい社員は、最初はあまり目立たないが、ある時期になるとボーンと飛躍的に伸びるという。 だから安心してハメを外してもいい。そしてあとの尻ぬぐいは、俺たち先輩に任せておけばいいから。

 同じ日の新聞に、一流企業の社長たちが新入社員に送る言葉を載せているが、何とも空疎で読む気がしない。 

 その大先輩が亡くなって、もう13年。この時期になるといつも、エレベーターで出くわしたときのあの恥ずかしそうな姿を懐かしく思い出す。

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2008年3月22日 (土)

ケーチュー

 一種のパソコン中毒だろうか。

 朝起きたらパソコンを起動するし、夜寝る前にも必ずメールを確認する。

 メールは多い日だと300件を越える。半分以上は外国語で、そのままゴミ箱行き。残りもほとんどがDMだから読みもしない。登録した覚えのないメルマガも毎日のように来る。最近は巧妙なものもあって「コピーのトナーが安くなります」と書いてあるからアクセスすると「ご入会ありがとうございます」とアダルト系のサイトにジャンプしたりする。一種のワンクリック詐欺で、もちろん無視するが、こんなのにのせられてお金を振り込んだりする被害が後を絶たないらしい。

 さっきからボクが新聞を読んでいる横で、長女がケータイを触っている。朝起きてから夜寝るまで。家族で食事をしているときでもしょっちゅう着信音が鳴っている。これも一種の中毒で、女子高生あたりに多いそうだ。

 部活の連絡はすべてメール。天気予報や最新映画のチェックから、音楽のダウンロードに友達のブログ、ケータイ小説まで、小さな液晶画面を食い入るように真剣に見つめている。隣で妻は「あのせめて半分でも勉強に身を入れてくれたら」とため息をつく。

 ケータイ小説は、本を買わずにすむし場所もとらないのがいいという。ちょっと見せてもらったが、文章が短くて改行が多い。語彙に乏しく表現力に欠ける。少なくともボクの感覚ではこれは小説ではない。

 パソコン族とケータイ族。ケータイの利点は手軽にどこでもできることと値段が安いこと。しかしボクがもし不得意な文字盤操作を克服できたとしても、ケータイ族にはなれない。あの小窓ではモノを考えることができないからだ。

 ケータイ中毒を”ケーチュー”というらしいが、一種の若者の流行り病みたいなものではないか。無理やり禁止しても効果などない。でもいつか熱が冷めたときに気づいてほしい。われわれの先人が残してくれたもっと素晴らしい文化があることに。

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2008年3月15日 (土)

出題ミス

 いつもこのシーズンになると、新聞をにぎわすのは出題ミスの話。

 公表される試験問題など読んでもチンプンカンプンだが、出題ミスのニュースだけは念入りに読む。意地悪で見ているのではなく、二重、三重のチェックを潜りぬけてきたミスというのはいったいどんなミスなのか、ちょっと興味があるからだ。

 でも首を傾げたくなるようなミスが多い。何人もが念入りに点検しているとは言っても、真面目に見ているのは作った当人だけではないのか。あとはみんなメクラ判。これは大きな会社でもよくある話。稟議書の数字の千円と百万円が違っていて、最後に決裁する社長が気づく。ハンコを押した連中はみんなオタオタ。間違いなどないと思い込んでるから、チェックも上滑り。ましてきれいに印刷されていると誰も疑わない。

 昨日発表されていた山梨大学のミスは『記憶と距離』(平野啓一郎)を扱った出題。「フンイキ」を漢字に直す問題がありながら、7行前の文中にすでに漢字で『雰囲気』の文字があったという。弛んでいるとしか思えないような初歩的なミスで、この出題自体も大学入試のレベルではない。

 また出題ミスではないが、岐阜県の公立高校の話は笑える。『欠席』を漢字で書く問題があるにもかかわらず、一部の試験会場で、受験生に欠席者がいないことを示す『欠席なし』という文字が黒板に書かれていたという。

 試験官には問題までは知らされていない。受験生から「ここの漢字が黒板に書いてありますよ」と指摘されて、さぞかしあわてたことだろう。この設問については受験生全員を正解にしたらしいが、緊張感あふれる受験会場で起きたマヌケな話である。

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2008年3月 8日 (土)

ロス疑惑

 もう過去の人だと思っていたのに・・・

 不思議な事件だった。今も昔もボクはあまりこの手の事件には興味がないが、あの頃は日本中が踊らされた。当時暮らしていた独身寮にこの事件が大好きな先輩がいて、いつも夜中に捜査の経過を聞かされるのには閉口した。

 テレビに出てくる人たちの顔を見ていて、4半世紀という年月の重みを感じる。まずは逮捕された三浦ナンタラが年をとったこと。おばちゃん顔に老けてしまって、叔母だとかいう水之江滝子にそっくり。

 この人のことを、マスコミが三浦元社長と呼ぶのはなぜだろう。日本では無罪になったから三浦容疑者ではおかしいし、かといって犯人かもしれない人を三浦さんというのもヘンだ。三浦カズというと誤解されそうだし、誰かが苦労してこんな妙な肩書きを考えついたのかもしれない。

 以前に島田紳助が傷害事件を起こしたときに、島田紳助司会者という耳慣れない言葉を再三聞かされた。スマップの稲垣吾郎が道交法違反で捕まったときも、ワイドショーは稲垣メンバーという不思議な呼び名を使っていた。今話題の橋下知事にしても、立候補の段階では『タレントで弁護士の…』という紹介のされ方。どうでもいいが、距離のとり方にそれぞれ迷いが感じられておかしい。

 ついでに、事件当時ロス市警で捜査を担当したジミー佐古田が年をとったのにも驚いた。穏やかな話し方は同じだが、人相はすっかり変わってしまった。ずっとこの捜査に関与してきたのだろうか。

 アメリカでは一級殺人に時効がないことも初めて知った。たしかに被害者側の感情を考慮したら、一定の重い犯罪は時効になじまないような気がする。

 一事不再理という言葉を聞いて、ふとダブルジョパディという映画を思い出した。夫殺しの判決を受けて服役。出所したら何と夫は生きていた。保険金詐欺である。そして復讐に燃える妻がその夫を殺しても、一事不再理で処罰されない。だってもう処罰は終わっているから。なんて本当だろうか…

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2008年2月26日 (火)

イージス艦

 『イージス』というのは、ギリシャ神話でゼウスが娘に与えた盾のことらしい。

 日本に飛んでくるミサイルを探知するための盾となるはずの護衛艦が、凶器と化してはかなわない。

 それにしても、今回の事故を起こしたイージス艦の乗組員は、なぜすぐに漁船の救助活動をしなかったのだろう。現場の海上を目視すれば、漁船の被害状況は一目瞭然だったはず。海上保安本部からの指示を待つまでもなく、即座に乗組員全員で人命救助に動くのが当然ではないのか。しかしまったくその形跡は見られない。

 事故原因の究明は専門家の調査に委ねるしかない。また防衛省の対応の稚拙さも、キチンと仕置きをしなければなるまい。しかしこの事故で最も大きな問題は、不幸にして衝突事故が起きてしまった後、迅速な救助活動がなされなかったことだと思う。

 居眠りでもしていて惨事が起きたのかもしれない。それでも事故の衝撃で乗組員はみんな飛び起きたはず。その時点でどうして被害を最小限度に食い止めるための努力がされなかったのだろう。

 真相究明はこれからだが、イージス艦は意図的に救助を怠って漁船の二人を見殺しにしたのではないか。うがった見方をしたら、被害者の口を塞いだとも考えられる。生きて証言されたらイージス艦の過失が明らかになるから、二人をわざと真冬の海に放置して死なせたのだ。

 もしそうだとしたら、ことはただではすまない。単なる業務上過失致死ではなく、未必の故意による殺人罪が適用される余地がある。

 マスコミの視点は、事故原因と報告の遅れに偏っている。いちばん大切なはずの人命救助が後回しにされているように思えてならない。

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2008年2月25日 (月)

ご苦労様

 月に1回、クライアント先の開業医に行く。

 今日は約束の時間より早く着いたので、待合室で雑誌を斜め読みしていた。窓口で患者が精算している。その患者に女性スタッフが最後にかける言葉は「お大事に」。

 これはなかなか便利な言葉だ。患者に対する言葉としてピッタリで、文句のつけようがない。もっとも医者だからそれでいいのだが、一般的に別れ際にかける言葉というのはなかなか難しい。

 ふつうの商店なら「毎度ありがとうございます」。大阪弁だと「おおきに」でも気持ちは通じる。

 でも、これがストレートに言いにくい職業もあって、そんなときによく使われるのは「ご苦労様」。役所の窓口では、固定資産評価の縦覧でも、印鑑証明書の申請でもこの言葉が返ってくるが、いつも違和感を感じる。

 こういう用事は、誰に頼まれたワケでもなく純粋に自分の仕事。ところが「ご苦労様」というのは、しなくていい仕事までしてもらって感謝するというようなニュアンスを含んでいる。自治会で公園の清掃をしているときに、たまたま通りかかった市役所の担当者が言うなら分かるが、隣宅の主人が自分の庭の枝を剪定しているのに「ご苦労様」とは声をかけない。

 役所の窓口では「もうアンタとのやりとりは終わったよ!」と、ピシャっと縁を切るための言葉が必要なのだろうか。そうしないと相手が引き上げてくれないのかもしれない。

 大阪の中之島図書館は、出口でロッカーキーを返却すると、おばさんが大きな声で「さようなら」と挨拶してくれる。ボクは慣れているが、初めての人は面食らう。でもこれこそ簡潔でムダのない挨拶だと思う。

 うちの実家にはお寺のお坊さんが月参りに来る。お経をあげてもらった後でお布施を渡す。そのとき彼は「ありがとうございます」でもなく、両手を合わせて軽く頭を下げる。仏に仕える身として、仏に代わってお布施を預かりますというような意味合いの仕種なのだろうが、気持ちは充分伝わる。

 市役所でもマネしてみたらどうか。住民票の手数料をもらうときに手を合わせる。笑われそうだが、「ご苦労様」よりはだいぶマシである。

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2008年2月17日 (日)

いい男はそうして作られる

 「いい男はそうして作られる」

 何のことかと思われるだろうが、新しくできた