2008年7月21日 (月)

筆順

 その昔、小学校の先生に、漢字の部首やら画数やら筆順やらをうるさく教えられた。

 部首と画数は漢字辞書を引くのに必要だった。日本語というのは難しいものだと思いつつ、無理やり幼い頭に叩き込んだ。「次」という漢字の部首が、偏(へん)ではなく旁(つくり)の欠(あくび)だなどと、大人になった今ではほとんど必要のない知識。半分以上はすっかり忘れている。

 筆順も苦労した。「必」「飛」「武」「発」などは何度も書いて覚えた。「右」はタテの払いから、「左」はヨコ棒から、と似たような字でも筆順が違うのが不思議で、どうしてこんなつまらないことを覚えさせるのかと思った。最近は漢字を書くことがめっきり減ったので、筆順どころか漢字そのものが思い浮かばない。

 子供たちが勉強しているのをたまに覗くことがあるが、驚くのは筆順が滅茶苦茶だということ。漢字どころかひらがなにしても同じ。今どきの先生は鷹揚で、あまり気にしないのだろうか。しかし箸の持ち方と同じで、いったん誤って覚えると、あとで矯正するのは難しい。

 早くきれいに字が書けるなら、それほどやかましく言うことでもないのかもしれない。そう思いつつ、目につくと思わず注意してしまう。子供たちは「また始まった…」と顔を見合わせている。

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2008年7月 5日 (土)

漢字とカタカナ

 ここのところ、連日、新聞にウナギとかエビとかいう大きな活字が躍っている。

 中国産ウナギの偽装問題やエビ養殖詐欺の関連記事である。

 ところで、こういう動物や植物の名前を書くときに、漢字、ひらがな、カタカナをどんなふうに使い分けるのだろう。最近よく出てくるウナギの場合は、新聞はほとんどカタカナ、ネットはたまにひらがなもあるが、漢字は見たことがない。

 「カタカナだと表音文字の羅列になって原意が失われるから、学術表記以外は漢字が好ましい」という意見があるらしい。しかし、これもケースバイケース。原意といわれても固有名詞にはとんでもなく難しい字を使うものもあって、ふつうの人には読めない。團 伊玖磨の『パイプのけむり』などには難しい字がいっぱい出てきて辞書と首っ引き。苦労して読めても、今度は姿かたちが浮かばない。

 ボクは原則、動植物の名前はカタカナで書く。ひらがなにしないのは、言葉の切れ目が分かりにくいからで、特別な意図はない。

 たまに漢字を使おうかと迷うのは、犬、牛、馬、桜、柿、桃、竹…あたり。比較的平易な漢字で、日常でなじみの深い動植物が多い。漢字かカナか、他人が書いたものを読んでいる分にはあまり気にならないのだが、自分で書いてみるとなかなか悩ましい。

 ただし同じ魚の名前でも、食卓に上がると断然漢字がいい。雲丹豆腐、穴子の八幡巻き、海老しんじょう、真名鰹の西京焼。壁に貼られたお品書を眺めているだけで、皿に盛り付けられた生き生きとした姿が目に浮かぶ。

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2008年5月25日 (日)

「新解さん」

 辞書を引いたり地図を調べたりするのは、半分趣味みたいなもの。

 仕事机の脇やテレビの前に常備していて、分からない単語や知らない地名はその都度確認する。もちろん昨今はインターネットで調べることもできるが、やっぱり使い慣れた辞書や地図にはかなわない。

 Smk6img12_s辞書では『新明解国語辞典』(三省堂)が出色。一部の熱狂的なファンは『新解さん』と呼んでいて、『新解さんの謎』(赤瀬川原平)という本が出るほど独断と偏見に満ちた個性的な辞書なのだ。言葉の意味を調べる辞書という範疇からは大きく逸脱していて、読み物としても充分に楽しめる。

 たとえば「恋愛」という言葉。広辞苑なら「男女間の恋い慕う愛情」と、いかにも人畜無害で素っ気ない。

 ところが『新解さん』(第六版)では
「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」とまで踏み込んでいる。
 これが辞書だろうか。編者が特別な思い入れで書いているとしか思えない。

 しかもこれが版を改めるごとに微妙に変化していて、手元にある第四版では、
「特定の異性に特別の愛情をいだいて、一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態」とある。
 どうやら失恋を繰り返した人らしく、その独善的な決めつけ方は何度読んでもおかしい。

 辞書がここまで書くのかと眉をひそめる向きもあるが、無味乾燥な解説よりもずっと楽しい。他の辞書で調べた言葉でも「新解さん」独自の解釈を知りたくて、ついついもう一度引いてしまう。

 辞書のくせに、強烈な個性を放っている。

 「善処」は「うまく処理すること。政治家の用語としては、さし当たってはなんの処置もしないことの表現に用いられる」とある。反骨精神があって、ひとこと言わないと気がすまない性格のようだ。

 「実社会」は「実際の社会。美化・様式化されたものとは違って複雑で、虚偽と欺瞞(ぎまん)とが充満し、毎日が試練の連続であると言える、きびしい社会を指す」。ずいぶん屈折した苦労人とお見受けする。

 「動物園」はよほど気に入らないらしく、「捕らえて来た動物を人工的環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し、動く標本として都人士に見せる、啓蒙を兼ねた娯楽施設」と手厳しい。
 ちなみに第四版はもっとすさまじく、「生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし飼い殺しにする人間中心の施設」。ここまで書くとケンカを売っているとしか思えない。

 例文では「雪子」がやたらと出てくる。第四版では「ぞっこん」の例文として「私は、雪子の美貌と気性にぞっこん引きつけられていたが」 を引用している。いきなりの固有名詞は唐突だが、あこがれの人なのだろうか。

 「新解さん」は無類の食いしん坊である。巷間のグルメ本の如く、まったくの主観で「うまい」「美味」を連発する。なかでも注意深く読んでいくと、魚介類に点数が甘い。おこぜ・はまぐり・あわび・赤貝などはいずれも高評価だが、牛肉や馬刺しには関心を示さない。

 優等生的なNHKのアナウンサーが広辞苑なら、放送禁止用語を頻発するローカル局の解説者に似ている。彼がたどってきたこれまでの人生や、ちょっと斜めに構えた価値観が透けて見える人間臭い書きぶりは、情熱的で正義感が強く心やさしい。

 最後に「凡人」。自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。マイホーム主義から脱することの出来ない大多数の庶民の意にも用いられる」とある。「新解さん」は凡人なのか。

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2008年5月21日 (水)

『あほらし屋の鐘が鳴る』

 『あほらし屋の鐘が鳴る』(斎藤美奈子)を本屋で斜め読み。

 タイトルが懐かしくて思わず手にとってみたが、中味はちょっと期待外れ。

 筆者は「何をゴチャゴチャゆうとんねん、あほらし屋の鐘が鳴るわ」と、平成のおやじたちのカン違いを一刀両断に切り捨てる。巷で繰り広げられるトンチンカンな発言にズバっと切り込んで、浅慮や偏見をあぶり出していく。軽い読み物としては面白いものの、強引な結論づけや女性特有のひがみがちょっと気になる。

 10分ほど立ち読みして本屋を出たが、電車に乗ってもタイトルが頭から離れない。幼い頃よく聞いた言葉だが、もう何十年も封印されていて今では耳にすることもない。納屋の奥からホコリだらけの骨董品を見つけてきたような感覚で、遠い記憶をたどれば亡くなった祖父母の口癖だったような気もする。

 少なくとも、ボクが育った昭和30年代の大阪ではよく使われていた。小学校でも、つまらないギャグを言うと「あほらし屋~の鐘が鳴る!」と切り返された。

 この「あほらし屋の鐘」とはいったい何なのか。その本によると、唐突に力の抜けそうなひと言を耳にしたときに、脳の中で鳴り響く「カーン」という高らかな鐘の音だそうだ。

 ためしにウチで使ってみた。
   長女 「あほらし屋ってナニ売ってるん?」 
   次女 「カネってナ~ニ?お金くれるの?」 
   妻 「……(反応なし)」 
  しばし沈黙の後、何ごともなかったかのように淡々と他の話題に。どうやらスルーされたらしい。

 ボクはこの言葉に気の抜けたような郷愁を感じたが、世代間ギャップは大きいようだ。

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2008年4月21日 (月)

くいだおれ

 大阪名物「くいだおれ」が7月8日で閉店するらしい。

 「くいだおれ人形」と「づぼらやのフグ」「カニ道楽のカニ」が道頓堀の三大名物。でも考えてみたらボクは、知人が来阪したときにあの人形の横で写真を撮ったことはあっても、店に入って食事をした記憶がない。

 2008421先日何人かでその話題になったが、やはり誰も店に行ったことがなかった。報道によると売上げは最盛期の半分くらいになっているという。あれは飲食店というよりも、観光名所なのかもしれない。

 その「くいだおれ太郎」の引き取り先が注目されている。通天閣に移すとか、タイガースが買うとか… しかし、これだけ国民的人気のある大阪の顔だ。大阪市が買い取って、ミナミのどこかに残したらどうか。よそに移設するのは反対である。

 閉店する前に一度店を見ておこうと、混みあう昼どきを避けて11時過ぎに行ってみた。するとすでに長蛇の列。2階から上の和食フロアには入れそうにないので、1階の洋食レストランでハヤシライス(750円)を注文した。味は可もなく不可もなく。ボクと相席になったお婆さんは常連客のようで、メニューも見ないでエビフライとハンバーグのセット定食を頼んでいた。ものの10分足らずで食事をすませて表に出ると、もうその頃にはレストランにも客が並んでいる。まだ11時半にもなっていないのに…

 高齢化した従業員たちはてんてこ舞い。「あの報道から毎日こうですよ」とレジのおばさんが恨めしげに言う。閉店を発表したとたんに店がごった返しているというのも、何やら皮肉な話。

 「支店を出さない、家族で力を合わせて経営する、看板人形を大事にする」という創業者の経営方針が、今の世の中でうまく機能しなかったのだろう。古いものが時代の波に流されるのは世の習いとはいえ、見慣れた街の風景が消えていくのは寂しい。

 閉店までにもう一度行ってみよう。

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2008年4月 2日 (水)

細君と宿六

 たまにホコリを被った本棚に手を伸ばすことがある。

 昨夜、たまたま漱石の『我輩は猫である』をパラパラと眺めていると、やたらと「細君(さいくん)」という言葉が出てくる。百年ほど前までは面と向かって相手に「キミの細君は…」などとやっていたらしいが、ボクは残念ながら生ではその言葉を耳にしたことがない。

 廊下に人影が見えて、座敷の障子がそっと開く。お茶と和菓子を盆に載せて、和服姿の楚々とした女性が現れる。庭から漂うのは甘酸っぱい梅の香り。こういうときに細君というのはピッタリの言葉で、細面(ほそおもて)で薄化粧の女性の姿が目に浮かぶ。

 それでは近ごろの男性諸氏は、自分の奥さんのことを人前で何というか。

 同年代の連中は「ヨメサン」とか「カミサン」と呼ぶ人が多い。「女房」というのはもう少し上の世代。若い連中は平気で「ウチの奥さん」などというが、これはどうもおかしい。少し改まると「妻」か「家内」で、口語ではさすがに「配偶者」はない。「ワイフ」は気障だが、クチの悪いのになると「ヤマの神」とか「ウチのかかぁ」…

 そう考えると日本語の語彙は豊富である。ニュースは「妻」で統一しているようだが、これはいかにも無味乾燥。「妻の真須美容疑者は…」くらいならいいが、「第一発見者の妻が…」では失礼だろう。

「太っていても細君とはこれ如何に 宿六なのに主人の如し」というのを聞いたことがある。ちなみに語源は、細君とは前漢の文人・東方朔の妻の名、転じて自分の妻、さらに転じて他人の妻を指すらしい。いっぽうの宿六とは、宿のろくでなしの意。妻が自分の夫を、卑しめたり親愛の情を込めていうそうだが…

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2008年3月23日 (日)

「2001年宇宙の旅」

 『2001年宇宙の旅』の原作者であるアーサー・C・クラークが亡くなった。

 この映画は劇場でもテレビでもビデオでも見た。これと『地獄の黙示録』とがボクにとっては難解な作品の双璧で、いまだに訴えたい内容がよく分からない。

 ちょうどアポロ11号が月面着陸を果たした前年(1968年)に日本で初公開されたらしいが、そのときの記憶はない。ボクが新宿の映画館で見たのは、その10年後くらいだと思う。

 音楽と映像の素晴らしさには圧倒されたが、映画の意味はまったく分からなかった。ちなみにクラークは「もし、この映画が一度で理解されたら我々の意図は失敗したことになる」と言ったとか。

 当時のイメージとしては、2001年なんてとんでもない未来で、この映画のように宇宙ステーションがあって、コンピューター制御された宇宙生活があっても不思議でないように感じた。何十年先の未来というのは、それくらい曖昧なものだ。

 この作品のテーマは、人間とコンピューターの相克。宇宙船を管理していたスーパーコンピューターHALが船内で思わぬ反乱を起こして、人間が人工知能に翻弄される。

 上映から40年。コンピューター技術は格段に進歩した。意思や感情を持つコンピューターこそまだ夢の世界だが、面倒な計算や記憶を肩代わりして時間や労力を省いてくれる。

 だが彼らが進歩した分だけ、われわれ人間が退化してはいないか。漢字は書けない、計算はできない。地図は読めない。何やら今流行りのアウトソーシングの話に似ていて、機械に頼りすぎると、やがては母屋まで取られかねない。

 今でもまったく色あせない映画であることに驚くが、鬼才キューブリックは、コンピューターによる人間社会の空洞化まで予期していたのだろうか。

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2008年3月 1日 (土)

ルール社会

 最近はほとんど毎日のように車で出かける。

 いちばん気を遣うのは駐車違反。近ごろはわずか10分でも油断できないから、駐車場があれば必ず入れる。初めての訪問先の場合は、あらかじめ車を停められる場所を確かめておく。繁華街ならまだしも、コインパーキングがない住宅地もあって、そんなときはヒヤヒヤしながら手短かに話を済ませる。

 飲酒運転はもちろんしないが、検問を受けたこともない。ネズミ捕りの網を張っている地点ならだいたい知っているから、制限速度を多少越えることがあっても、スピード違反で捕まったことはない。

 それよりも怖いのは、信号が赤になっても突っ込んだり右折したりするいわゆる『大阪運転』。はじめのうちは驚いたが、郷に入っては何とやら。あまり杓子定規に停止しても後ろから追突されるので、近ごろは流れに乗って運転している。逆に信号が青に変わってもすぐには発進しない。左右の安全確認をしてからでないと、赤信号でも平気で進入してくる車があるからだ。

 アメリカで何度かレンタカーを借りたことがある。日本と違うのは、直進の信号が赤になると同時に交差する信号が青に変わること。だから赤で突っ込んだりすると大事故につながる。

 ルールに対する考え方が異なっているのだろう。多民族国家では社会の掟は絶対だが、日本ではバレなければいいという考え方が横行している。

 世界に類をみない単一民族国家であるわが日本。社会の構成員がそれぞれ節度をもって行動しているうちは「ナーナー」でも何とかやってこられた。しかし価値観が多様化する中で、その日本もルール社会に移行せざるを得ないときを迎えている。

 信号が青に変わった。左右の安全を確認して、いざ出発…

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2008年2月 1日 (金)

英語教育

 はたして小学校で英語を教える必要があるのだろうか。

 世界の共通言語が英語であることは間違いない。最近は中国や旧ソ連圏でも、英語で意思疎通する光景がごく日常的に見られる。ところが日本人は英語力、とりわけ英会話能力が極端に低いから、次世代を担う若者たちを真の国際人に育てるためには、英語の早期教育が必要である。

 とまあこんな論法だが、どうも首を傾げたくなる。

 もちろん、英語はできないよりできたほうがいいし、英語を教えることが悪いとは思わない。しかし優先順位の話として考えれば、小学校の限られた授業時間の中で、もっと他に教えることがたくさんある。まずは国語、次に社会。これらの大切な教科を減らしてまで英語を教えるということには賛成しかねる。そうでなくても近ごろは、日本のことを知らない若者が多すぎる。

 ボクなどは、英語ができなくても仕事でも生活でもちっとも支障はない。そもそも今の日本社会で、英語ができないと困るような人はそれほど多くない。必要だと思うなら、中学や高校、大学で勉強しても遅くはない。

 いくら流暢な英語を話せても、まるで意思疎通ができない人がいる。それは表現すべき中味がないからで、これは英語ができないよりもずっと恥ずかしいことだ。

 英語はコミュニケーションのツールであって、国際社会で求められているのは英語力ではない。自分の意見を述べて他人と議論し、まとめあげていく力だ。日本人が海外で通用しないのは、自分の考えをキッチリ表現できないからであって、英語の力など二の次だと思う。

 英語ができれば国際人というのは、大いなる幻想である。

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2008年1月31日 (木)

あらたにす

 今日から「あらたにす」というWebサイトが開設された。

 日経・朝日・読売の3紙のニュースや社説などを読み比べできるサイトで、なかなか面白い。

 ボクは家では日経を読んでいるが、駅の売店で他紙の1面トップニュースをチラっと見て、興味があれば買って読む。

 これからはそんなことをしなくても、Webで簡単に読み比べができる。便利なのは注目テーマのニュースクリップ集で、話題のニュース記事をまとめてチェックできる。ちなみに今日のメインテーマは「中国製ギョウザ食中毒」で、「ハンドボール五輪再予選」「ガソリン税」「米大統領選」「花粉の季節」と続く。1つのテーマについて過去の記事にまで遡れるので、読み落とした旬の話題や一連の流れをまとめて知ることも可能。

 IT時代の新聞の役割は難しい。スピードと臨場感ではテレビやインターネットに歯が立たないが、信頼性では新聞が勝る。時間を見つけて、落ち着いて活字を拾うのも楽しいものだ。

 ともあれ、しばらくは新聞を買わないでパソコンで読み比べを楽しむことにしよう。

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2008年1月18日 (金)

親父ギャグ

 ついこの間の夕食時の話。

 焼肉を食べている子供たちに向かって
 「野菜も食べヤサイ!」
 「レバーも食べレバ~」

 こういうのを世間では親父ギャグというらしい。

 次女は「寒(さぶ)~」と軽く受け流す。長女はスルー(無視)して黙々と箸を運ぶ。妻は聞こえないフリ。マロンだけが遠くでキャイ~ンと合いの手を入れる。

 今月発売された『広辞苑(第6版)』(7,875円)には、この『親父ギャグ』なる言葉が新しく収録されていて、「年輩の男性が口にする、時代感覚からずれた面白くない冗談や洒落」とある。単に「遅れた」ではなく「時代感覚からずれた」というのがミソ。

 書店でちょっと迷った末、大枚叩(はた)いて買ったこの広辞苑。その誕生は意外と新しく、ボクが生まれた翌年の昭和30年だそうだ。敗戦国日本にとって文化回復の象徴で、その後似たような辞書はあちこちから出版されているが「広辞苑では…」という言葉の重みは他の追随を許さない。

 しかし、今やその広辞苑とて無敵ではない。今回は10年ぶりの改訂だが、電子辞書の普及やウィキペディアの台頭で、初刷部数も前回の半分だとか。

 収録の基準を見ていると、NHKの紅白と似たような道徳臭さを感じ取る。それがいいという人もあろうが、保守的なのだ。これに載れば言葉として一人前。大きく手を広げて、品のない言葉は弾き飛ばす。

 言葉は生き物である。おまけに近ごろは流行り廃れが速くて、10年に一度くらいの改訂では追いつかないだろう。

 さて気の早い話だが、次の第7版では『親父ギャグ』は残っていますかな…

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2007年12月21日 (金)

国語絶対論

 学校での読書事情が改善されつつあるらしい。小学生は年間10冊の本を読み、読書量は10年前の2倍になっているとか。むしろ問題は大人になるにつれて減っていることだという。

 子供には幼い頃から本を読む習慣をつけてほしい。最近よくマスコミに登場する数学者の藤原正彦さんは「国家の浮沈は小学校の国語にかかる」と断言する(『祖国とは国語』)。

 藤原さんは『国語教育絶対論』というエッセイで、国を立て直すには第一に教育。中でもすべての知的活動の基礎であり、論理的思考を育て情緒を培う『国語』を中軸に置けと自説を展開する。

 そういえば中曽根元総理も石原都知事も国語絶対論者で「日本語も満足にできないのに、小学校で英語教育だのと愚の骨頂」だという。同感である。

 言葉は単なるコミュニケーションの手段ではなく思考の道具。語彙が豊かであれば思考の幅が広がる。

 たとえば、「好き」という感情一つとっても、「片思い」「胸を焦がす」「密かに慕う」「一目惚れ」「横恋慕」など日本語には微妙な心のひだを表現する言葉がたくさんある。語彙力が乏しくて「好き」という言葉しか知らなければ、細やかな情緒など育つはずがない。若い女性が「カワイイ~」「オモシロ~イ」とかいう薄っぺらな言葉を連発するのを聞いていると実に情けなく思う。

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2007年11月27日 (火)

ミシュラン

 ミシュラン東京版が発売された。

 93077431今回の調査は東京都内だけで、最高評価の三ッ星を獲得したのは、日本料理・すし・フランス料理の8店。150店もの写真や紹介文が掲載された本の値段は 2,310円とけっして安くない。

 それによると「東京は世界一級の美食の町」で、星の数では他の外国都市を圧倒的に押さえて堂々のトップだという。でも、この大盤振る舞いはちょっと怪しい。

 ミシュランがレストラン格付けの世界的権威だということくらいは知っているが、こんなに大騒ぎする理由が分からない。六本木ヒルズでの発売イベントには、午前零時のカウントダウンに 500人もの列ができたというから恐れ入る。 

 だいたいフランス人に、微妙な日本料理の味など分かるだろうか。この騒ぎは、広告代理店と出版社、レストラン業界の連中とそれを取り巻く業者たちが巧妙に仕組んだものだというのに気づかないのか。

 書店には、いわゆるグルメ本がヤマほど積んである。情報誌などでも、流行のレストラン特集の活字が並ぶ。ボクもたまにこういうネタを頼りに店に足を運ぶことがあるが、自分の舌で感じる評価とは異なることも多い。味覚には個人差が大きく、他人の話は鵜呑みにはできない。

 なかには値段だけ一人前という店もあるが、高くて美味いのは当たり前。銀座の一流店でサイフを気にしながら注文するよりも、ひなびた漁港の小さな寿司屋で新鮮なネタを腹いっぱい食べるほうが、自分には合っている。

 引退した芸人の名セリフ。「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流。恵まれない天才、上岡龍太郎です」というのを懐かしく思い出した。

 埋もれた美味い店を自分で探すのも楽しいではないか。

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2007年11月 3日 (土)

「が」と「は」の違い

 昨夜、次女が宿題が分からなくてボクの部屋に来た。

 大げさにいうと、父親たるモノの権威が問われる瞬間である。国語だと聞いてホッとした。理科あたりになるとお手上げの難問が多いからだ。

 「が」と「は」の違いを理解させるための文法の基本問題。だがこれを子供に分からせるのは意外と厄介だ。「私○プールで50メートル泳げるようになりました」という場合、「が」は未知の情報を示し「は」は既知の情報を示す。

 つまり「誰が食べたのか?」の答えが「私が食べた」。「何を食べたのか?」の答えが「私はケーキを食べた」。前の質問者は私が食べたことが分かっていないが、後の質問者は私が食べたことは前提として知っている。

 こう教えたら、キョトンとして帰って行った。

 ちょっと思い出したことがあって、六法全書を開いてみた。国家賠償法1条1項。「・・・国又は公共団体、これを賠償する責任を負う。」とある。やっぱり・・・

 年金問題から始まって直近ではC型肝炎の患者リストが倉庫に眠っていた問題など、このところ厚労省の役人の不始末が次々と明るみに出てくる。ところがこの国賠法1条1項の書き方だと、賠償責任を負うのは国又は公共団体であって、加害公務員は責任を負わない。

 いったい誰がこんな法律を作ったのか。大日本帝国憲法時代には『国家無答責の法理』というのがあって、官吏は天皇に対してのみ責任を負ったらしいが、相次ぐ官僚の不祥事を見るにつけ腹立たしく思う。

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2007年10月13日 (土)

話すことと聞くこと

 午後から、妻に誘われて辛坊治郎さんの講演会に行ってきた。

 現在の活動の拠点は東京だが、彼の自宅はボクと同じH市。今日は地元の団体に招かれての講演で、オラが町の有名人をひと目見ようと、市民会館は立ち見客も出るほどの大盛況。

 ボクは朝のニュースはNHKしか見ない。だから、彼が出演する「ズームイン!!SUPER」はほとんど見たことがない。しかし、母も妻も彼の大ファン。イヤミのないハッキリした物言いが女性には好評らしい。

 本日の講演内容は、主題である地域コミュニティの話から時事ネタ、テレビ局の内輪話まで幅広い。しかも硬軟織り交ぜて澱みなく、あっという間の1時間半。今までさまざまな文化人やマスコミ関係者の講演を聞く機会があったが、地元ということは割り引いてもこれだけ聴衆を沸かせる語り手は少ない。客席の反応を確認しながらの話し方は名人芸で、ついつい引き込まれてしまう。

 でもそのなかで、話すことよりも聞くことのほうがずっと難しいという話は説得力があった。

 話すことは、ともすれば聞き手の許容力を無視した押し売りになる。いつも短い時間の中で自分の思いを伝えようと懸命になっているが、それよりもむしろ相手の話を聞くことに時間や精力を注がねばならないのではないか。

 話すことと理解してもらうこととは違う。明日からはもう少し「聞き上手」になろうと思いながら帰ってきた。

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2007年10月 1日 (月)

幸せのレシピ

 『幸せのレシピ』を見てきた。

 家から車で30分ほどのシネコンに朝一番で入った。子供たちには二人で好きな映画を選ばせて、大人は『幸せのレシピ』へ。『夫婦50割引』を使うと二人で2千円で観られるのはありがたい。そのせいかどうか知らないが、予想外に熟年カップルが多いのにも驚いた。

Noreservation1  美人で仕事もバリバリできる。でもプライドが高くて人づきあいが下手。だから部下や客ともしょっちゅうトラブルを起こす。そんな主人公の女性シェフが、母親を事故で亡くした姪を引き取ることに。店をちょっと休んでいた間にオーナーが臨時に雇ったイタリアンのスゴ腕料理人と敵対しながらも徐々に恋に落ちていく。ハリウッドの恋愛映画によくあるストーリーだが、涙も笑いもありのまずまずの味つけ。

 こういうキャリアウーマンが都会では増えているのではないか。職場では自信にあふれていてスキがない。仕事に取り組む姿はピンと背筋を伸ばして覇気がある。ところが待つ人もいない自宅に帰って化粧を落とせば、力が抜け切って精彩もない。オンとオフの使い分けといえばそれまでだが、そんな主人公を自分に重ね合わせる女性が多いのではないかとふと感じた。

 印象に残ったのは、厨房でのリズミカルな動きと軽妙なやりとり。昼前でお腹がへっていたこともあったが、手際よく料理が出来上がっていくシーンはなかなか面白かった。

 映画の舞台となっているニューヨークの冬景色がとても美しい。早朝の魚市場での仕入れのシーンなど、凛とした空気の冷たさが頬に伝わってくるようだ。

 BGMもいい。とくにラストのオペラ音楽が映像にマッチしていて心に残る。

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2007年9月29日 (土)

読書の秋

 さすがに朝夕は涼しくなってきた。いよいよこれから『読書の秋』。

 それにしても、ウチの子供たちは本を読まない。たまに開いているのはマンガかゲームの攻略本。まったく情なくなるが、これはウチだけに限ったことではないらしい。

 ボクたちが小学校低学年の頃は、やたらと国内外の伝記モノを読まされた。エジソンやファーブル、徳川家康などを読んで、感想文ばかり書かされた。高学年では子供向けに平易に書き直された世界の名作を片っ端から読破した。こうして自然に読書習慣が身についていく。ところが今の学校はあまり読書を薦めないらしい。そのくせ塾では難しい読解問題ばかりやらされている。どうも本末転倒に思えてならない。勉強だと思うからイヤになるのだが、読書はすべての知的活動の源泉。小学校では国語の時間をもっと増やして、読書の楽しさを子供の心にしっかりと植えつけてほしいものだと思う。

 大人も本を読まなくなったらしい。ある統計によると、日本人が本を読む時間は週4時間くらいで、諸外国に比べたらかなり少ないそうだ。

 本屋に行くと、平積みされて売れているのは実用書ばかり。若い人が難解な文学書や哲学書を手にしなくなったのは寂しい。

 もちろんそんなものを読んでも、実社会では何の役にも立たない。でも戦前の旧制高校の時代から、われわれの先輩たちは青春のあり余る時間を読書に充ててきた。真の教養人とは、実生活とはおよそ縁のない膨大な知識を頭の引き出しに入れている人をいう。もちろん実践的な知識も必要だが、教養というのは人間の厚みであり深さなのだ。

 この歳になって、若い頃に読んだ本を読み直してみると、読み飛ばしていた行間の深い意味に気づくことがある。また同じ表現の箇所でも、自分の経験を織り交ぜると解釈が違ったりすることがある。

 自分が感想を書き込んだ走り書きのメモなんかを見つけると、さらに楽しい。そこでお気に入りのウィスキーをひと口含んで、虫の大合唱を愛でながらページをめくる。こうして秋の夜長もいつしか更けていく。

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2007年9月21日 (金)

慫慂と吹聴

 なんだか難しい漢字熟語だけど、読めますか?読めたとしても、意味が分かりますか?

 『慫慂』(しょうよう)は最近よくお役人の答弁で聞く言葉。辞書を引くと「するように誘って、しきりに勧めること」とある。

 たとえば「消費税の期限内納付を慫慂する・・・」というような使い方。何としてでも期限を守って納めさせるという意味合いだが、それではあまりに赤らさまだから少しオブラートに包んでこういう言い方をする。でも新聞にはこんな難しい漢字は使えないから「しょうよう」とひらがなで書いてある。う~ん・・・商用、小用、従容? かなでは余計に通じない。

 典型的な役所言葉である。こんなの誰も分からないから、やめるべきだと思う。

 もうひとつの『吹聴』(ふいちょう)。これは辞書には「言いふらすこと、言い広めること」とある。ただし、言いふらすヒトをあまり良く思わないときの表現で、誉めるときには使わない。

 でもこれが、前に勤めていた会社ではそうではなかった。とにかくジャンジャン話を広めてウワサにしてほしいときに使うのだ。
 「来月から『○○様』(飲食店)で当社ビールの取り扱いが開始されますので、関係先にせいぜいご吹聴下さい!」

 はじめてこの文章を見たときは、書いた人のセンスを疑った。お腹でもこわしそうなビールだと笑ってしまった。でもみんな平気なのだ。社内文章だからいいようなものの、やはり違和感がある。あれから十数年、今でも使っているのだろうか。

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2007年9月14日 (金)

桂千朝独演会

 ワッハホールで『桂千朝独演会』を聴いてきた。
 Sencho
 千朝は桂米朝の最後の内弟子。タレント稼業に精出す噺家が多いなかで、高座一本に固執する渋くて粋な正統派。しばらく高座を離れていたが、熱心なファンや先輩同輩から才を惜しむ声が多く、ラブコールにこたえる形で復帰したらしい。

 たまたま彼は、ボクのお客さん(Hさん)の高校時代の剣道部の後輩。そんなご縁で知遇を得て、その後毎年Hさんから独演会にご招待いただいている。

 出し物は『本能寺』『愛宕山』『馬の田楽』の三席。けっして派手さもないし、大向こう受けするタイプでもない。しかし落語が好きで、じっくり聴きたい人にはいいと思う。正統派の芸で観客をつかむのが噺家の真骨頂だろうが、千朝はまさにそのタイプ。声質は師匠とは違うが、話しぶりはさすがによく似ていて、当初『米朝のコピー』と言われたというのもうなずける。

 三席ともそれぞれ鳴り物囃子の入った味わいのある古典もの。初めて聞く噺ばかりだったが、組み合わせも良かったし、お手本のような高座。

 こういう実力派の噺家が正当に評価される時代が来てほしい。

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2007年9月 3日 (月)

立ち上げる

 最近よく「立ち上げる」という言葉を見聞きする。「新規事業を立ち上げる」とか「パソコンを立ち上げる」とかいうふうに使うが、違和感を感じませんか?

 10年ほど前にNHKの調査で「“新製品開発のプロジェクトを立ち上げる”は、おかしいと感じるか?」という質問があった。これに対して当時は半数近くの人が「おかしい」と答えていたが、今同じ調査をしたらもっと少ないだろう。

 ボクもはじめて聞いたときは抵抗を感じたが、最近では慣れたせいかごく普通に使っている。最新の広辞苑でも「立ち上げ」は「コンピューターに必要なソフトを読み込ませて動くようにすること」と、こんな文法から外れた言い回しまで認めてしまった。

 この「立ち上げる」は「立つ」と「「上げる」がくっついてできた言葉。「立つ」は自動詞で「上げる」は他動詞だから、これが一緒になるはずがない。だから文法的には「立ち上がる」か「立て上げる」しかない。コンピューターなどの場合は「立ち上がらせる」というのが正しいのだろうが、イマドキ誰もそんな言い方はしない。

 どうしてそんな理屈をいったかというと、われわれ日本人は生活の中で言葉を覚えていくが、文法から入ってくる外国人にこういった日本語表現を理屈で教えることは難しいと思っているからだ。

 若い頃に勤めていた会社に、社員に英会話を教えるアメリカ人がいた。数人で飲みに行ったときに、店のメニューに『きまぐれシェフのわがままサラダ』という一品があった。

 彼いわくは、「きまぐれ」や「わがまま」というのは非難する意味合いが込められていて、そんな名前だと残り物を使って遊びで作ったような料理を想像する、とのこと。

 その言葉が今でも妙に頭の隅に残っている。
 ふだんわれわれが何気なく使っている言葉でも、もう少し丁寧に扱ったほうがいい。そういえばこの「何気なく」にしても、近ごろの若者は「ナニゲニ」という妙な省略形を使う。ふざけて使っていると分かっているウチはいいが、これが正しいと思ってしまうと不幸である。『言葉は生き物』だけど、何でも許されるというわけではない。

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2007年8月14日 (火)

阿久悠の時代

 阿久悠が亡くなった。

 今月になってから追悼番組を何度か見た。どの番組でも『昭和歌謡史に偉大な足跡を刻んだ作詞家』というようなタイトルがついているが、改めて作品を聞いてみると、たしかにスラスラ出てくる懐かしい歌詞ばかり。みんなが知っている曲の多さでは、この人の右に出る者はいない。

 考えてみたら、それまでの歌謡界では作詞者や作曲者は裏方で表に出ることはあまりなかった。しかし阿久悠はよくテレビにも出ていたし、彼の顔を知らない人は少ないと思う。

 追悼番組で芸能関係者は「彼の詩には日本人の心がある」と口を揃えるが、彼は詩人ではなくコピーライターだったのだと思う。けっして練られた歌詞ではないが、インパクトのある短い言葉を重ねて人の心をつかむ天才・・・

 今どきの音楽が心に響かないのは、詩に力がないためだ。言葉に魂が宿っていないから、印象にも残らない。阿久悠の詩は重たくもないが、共感できる強烈なフレーズがある。ボクはどんなにいい曲であっても、詩が好きになれないと口ずさむ気がしない。外国の音楽にいまひとつ傾倒できないのは、言語の理解力にも理由があるのかもしれない。

 ところで、詩と曲というのはどちらが先にできるのだろうか。ずっとボクは、先に詩を作って曲を合わせるのだと思っていたが、たいていは逆だそうだ。以前に小田和正がそんな話をしているのを聞いて、非常に驚いた記憶がある。阿久悠の場合もそうだったのだろうか。すでにできている曲に詩をつけるのは自由度が制限されて難しいだろう。

 その彼は生涯にいったい何曲書いたのだろうと思って調べてみたら、何と 5千曲を超えているらしい。そのなかからあえて好きな曲を 5つ選ぶと、

  『時代おくれ』(河島英五)
  『熱き心に』(小林 旭)
  『北の宿から』(都はるみ)
  『街の灯り』(堺 正章)
  『舟歌』(八代亜紀)

 それ以外にも、ジュリーの『勝手にしやがれ』と『時の過ぎゆくままに』は外せない。『ジョニーへの伝言』みたいなメローなポップスもいいし、おなじみの『津軽海峡冬景色』も捨てがたい。

 5千曲もあれば、1曲ごとへの思い入れも薄くなるだろうと思いきや、けっしてそうではなかったらしい。ある雑誌にこんなエピソードが紹介されていた。
『北の宿から』の歌詞について、ある記者が彼にちょっと茶化した質問をぶつけたことがあったそうだ。
「歌詞に出てくる『着てはもらえぬセーター』。
その女性はどこにいて、
なぜ着てはもらえないセーターなんか編んでいるのですか?」

 すると即座に返ってきたのは真面目な答え。
「その女性は30歳過ぎで、東京で不倫をして、信州あたりの温泉宿にいます」

 記者は、彼が詩を書く時のディテールの細かさに驚いたと結んでいる。
 まさにプロたるモノの鑑(かがみ)~ 合掌!

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2007年8月11日 (土)

こころ

 昨日の朝刊に、8月10日は『帽子の日』であり『こころの日』であるという記事があった。8月10日をハットとハートになぞらえた語呂合わせらしい。そしてその帽子とこころから、夏目漱石の『こころ』が思い浮かぶという。

  家に帰ってから、その話をふと思い出した。気になって本棚の奥を探してみたら『こころ』の文庫本が出てきた。半分黄色くなっている。薄っぺらい本といっても 256ページで 110円。あの頃はお金の値打ちがあった。奥付を見ると、昭和46年54刷とある。

 たしか、高校時代の現代国語の教科書に使われていた。教材はその一部で、残りはこの文庫本で読んだ。当時の文字フォントは小さくて見にくいが、頑張って最後まで斜め読みしてみた。
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 主人公である私は、学生時代に先生と出会う。世間の目を逃れるようにひっそりと学問をして美しい妻と暮らす先生には、人には言えない暗い過去があった。先生はその過去を妻にも隠していたが、私との交際が深まるにつれ、その過去をうちあけられる相手であると認めるようになる。そして帰省していた私に先生から分厚い封書が届く。そこには秘密にしてきた過去が記されてあった。
 先生がまだ学生だった頃、Kという親しい友人がいた。そのKの恋する相手が、自分が思いを寄せる下宿先のお嬢さんであるということを知った先生は動揺する。先生はKを出し抜いて、お嬢さんの親に結婚を申し込む。そして結婚することになった先生はKに詫びようとするが、Kは自殺してしまう。そして私にこのことを告白した先生も自らその命を絶つ。

 若い頃は感動して何度も読んだ。解説には、近代知識人のエゴイズムと倫理観との葛藤がテーマだと書いてあった。

 今改めて読み返してみると、乾いた水路に水を流すようにあらすじはすぐに思い出せる。しかし懐かしさ以外に何の感動もない。いったいこれはなぜだろう。若い時分には、好きな文学作品を問われたら迷わず『こころ』と答えていたこともあったのに・・・

 何だか浮世離れした話で、感情移入できる登場人物がいないのだ。みんな脆弱で、自分とつながるものが感じられない。

 先生がKに対してしたことは、倫理的には誉められた行為ではない。だからといってKも死ぬことはないだろう。情けないというよりも、卑怯ではないか。自殺するということは相手に対する決定的な復讐である。まだ若かった先生の将来に大きな十字架を背負わせることになる。しかしそれを私に告白した先生も、なぜ自ら命を絶たねばならないのか。

 この40年近くの間に、自分の価値観が変わったのかもしれない。それを成長というべきかどうかはよく分からない。たぶんこの本は青春時代に読むべき本なのだろう。

 久々に夜更かしが過ぎた。昔は明け方まで本を読んでいたこともあったことを懐かしく思う。

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2007年8月10日 (金)

千の風になって

 半年ほど前から次女がよく歌っている。

  「私のお墓の前で 泣かないでください
   そこに私はいません 眠ってなんかいません
   千の風に
   千の風になって
   あの大きな空を
   吹きわたっています」

 いきなりイントロから奇妙な歌詞。まだ詩に感情を込められない子供には、あまりふさわしくない歌だと思った。

 これは訳詩で、原作は数年前から欧米で静かに広がっていた原作者不詳の一編の詩。ニューヨークの同時多発テロで犠牲になった父親を偲んで11歳の少女が朗読していた。イギリスのBBCが、テロで亡くなった青年の遺書にこの詩が残されていたことを取り上げて大きな反響を呼んだこともある。

 日本で一躍有名になったのは、4年ほど前に天声人語で紹介されたからだ。そのときには作家の新井満が、すでにこの日本語の詩をつけていた。ガンで早世した同級生の奥さんのために訳した作品だという。

 優れた原作を巧みにアレンジしている。だだ気になるのは過度な商業性だ。聞くところによると、彼は「千の風」で歯磨き・化粧品・ビール・清涼飲料など、多くの商標登録をしているという。少し利に聡すぎないか。村の共有財産だった美しい水源に勝手に金網を張って、ミネラルウォーターとして瓶詰めするようなあざとさを感じてしまう。

 ただ心に沁みる名作であることは間違いない。
 たとえ身体は朽ちて土になっても、心は大空高く飛んでいる。死ぬということは風に生まれ変わること。手の届かない遠くに消えたのではなくて、すぐ近くで見守ってくれているということ。これまでとは異なる鮮烈な死生観に満たされている。

 もうすぐお盆。今年はちょっと違う気持ちで、先祖の墓前に手を合わせてみようと思う。

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2007年7月17日 (火)

インサイドパークホームラン

「ホームランと言っても、インサイドパークホームランだから・・」
そのイチローの言葉で、ランニングホームランという言葉は和製英語だと知った。

 野球はアメリカから来たスポーツなのに、こういう和製英語が多い。

 耳慣れないせいか、インサイドパークホームラン(=球場内の本塁打)という言い方はいかにも無味乾燥に聞こえる。ランニングホームランのほうがはるかに臨場感にあふれていて、はね返った打球が外野を転々とする間に、打者が二塁から三塁を蹴って本塁に走る光景が目に浮かぶ。

 和製英語が多いというのは、それだけ野球が日本に定着している証拠。ナイター、トンネル、フォアボールなども本場では通じないらしいが、日本で使う分にはいっこうに差し支えない。

 でもなまじ英語だと思い込んでいるだけに、彼の地に行くと和製英語は始末が悪い。ボクが以前にロスのホテルで困った話。

 まずはモーニングコール。6時に起こしてもらおうと思ってフロントに頼んだが通じなかった。あとで英語に詳しい同行者に教わったら”wake-up call”というそうだ。

 もうひとつは電気のコンセント。壁に埋め込まれた差込口のことだが、コンセントと言ってもフロント嬢は首を傾げるだけ。これもあとで調べたら”electrical outlet”または”socket”というらしい。ついでに電気器具についている電源コードの先は ”plug”。

 まあよくご存知の方もあるでしょうが、恥ずかしいボクの経験談であります。

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2007年6月28日 (木)

みずうみ

 ときどき夜中に目が覚めることがある。

 若い頃は目覚ましが鳴るまで熟睡していたものだが、年とともに眠りが浅くなっているのだろう。すぐにまた寝てしまうこともあるが、昨夜はたまたま目が冴えてしまった。

 時計を見たら3時半。家中静まり返っていて物音ひとつしない。自室の灯りをつけたら、机の上には読みかけの単行本と専門誌。書棚に目をやると、古い文庫本に目がとまった。

 シュトルムの『みずうみ』。パラパラとめくりながら斜め読みを始めた。この作品は彼の代表作で、幼なじみで相思相愛だった男女が女性の母親に仲を引き裂かれて、女性は別の金持ちの男性と結婚させられてしまうというよくある話。老人がふるさとの我が家で幼い頃の彼女の肖像画を見ながら、若かりし日を回想するという構成になっている。 

 この物語のいちばん美しい部分は、主人公が月夜の湖に飛び込んで、遠くに浮かぶ白い蓮の花まで泳いでいくシーン。まるでベートーベンの月光が散文になったかのような流麗さ。いくら泳いでも縮まらない蓮の花は自分のものにならなかった女性を象徴している。ため息が出るメルヘンの世界。結ばれなかった悲恋の回顧談という古臭さがまたいい。人生を重たく語るロシア文学もいいけれど、眠れぬ夜にはドイツロマン文学を堪能されたし。たぶん今の若者にはウケないでしょうが・・・

 結局そのまま夜が明けた。今日は少し寝不足である。

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2007年6月24日 (日)

バレンシアの熱い花

 Revue_img 何十年ぶりかで宝塚歌劇を観てきた。

 『バレンシアの熱い花』は19世紀初めのバレンシア地方を舞台に、復讐と恋を織り交ぜて描いたミュージカルロマン。

 予備知識がないとストーリーが分かりにくいが、ビギナーとしてはきらびやかなコスチュ-ムに歌と踊りだけでも充分に楽しめる。

 会場を見渡すとほぼ満席で 9割近くが女性客。上から下までビシっと決めたマダム風の女性グループもパラパラ。これがいわゆるヅカファンなのか、大阪あたりではあまり見かけない客層だ。

 ちなみに宝塚音楽学校は20倍以上の超難関。いつも合格発表光景がニュースで流れるが、そのブランドたるや有名私立高校なんて比較にならない。

 開演前に別室で、スタッフの方に30分ほどお話をうかがった。驚いたのは劇場の稼働率。ここだけでも年間に450回近くも公演をして、平日も含めて91%のチケットが売れているそうだ。もちろん日曜日の今日は完売で、立ち見チケットまで販売している。

 4割近くが固定客で、その人たちの年間来場回数は平均14回だとか。いったい宝塚の魅力とは何なのだろう。出演者は女性だけで、男役も男装した女性が演じる。見かけは歌舞伎と反対だが、その公演内容は、ミュージカル、レビュー、ショーと多彩で、また和洋どちらもこなす幅広いレパートリーを誇る。

 きらびやかなフィナーレまでたっぷり堪能してきたが、慣れないせいかどうも腰が落ち着かない。情けないけど、ボクには甲子園でビールを飲んでいるほうが性に合っている。ちなみにS席 7500円也。

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2007年6月18日 (月)

ニュー・シネマ・パラダイス

 車でFMを聴いていたら『ニュー・シネマ・パラダイス』の主題曲が流れてきた。

 あの物悲しいメロディは一度聴いたら忘れられない。日本で公開されたのは約20年前。ボクが見たのはシネスイッチ銀座という200席ほどの小さな映画館だった。周囲の立ち見まであふれ返っていて、通路の階段に腰掛けて見た。感動のラストシーンには涙がこぼれて、そのまま椅子席に移動してもう一度見た。

 舞台は戦後間もないシチリアの小さな村。ここでの唯一の娯楽はパラダイス座という映画館。少年トトは親の目を盗んでは映画館に通いつめていた。彼を魅了したのはフィルムの宝庫である映写室とそれを操る映写技師のアルフレッド。そして二人の奇妙な友情の絆が深まっていく。

 青年になって村を離れるトトに、アルフレッドは「どんな事があっても帰ってくるな」と言う。そして彼は二度と故郷を振り返らずローマで大成功を収める。その彼に田舎の母からアルフレッドの死を伝える電話。

 ここが映画の冒頭のシーン。愛人が隣に眠っているベッドで知らせを受けたトトが昔を回想するシーンからストーリーが始まる。過去と決別した空白の40年間、故郷に背を向けて彼は世俗の地位と名声を得た。しかし「電話したらいつも出る女性が違う」という母親の言葉からは、けっして幸せではなかった私生活が思い浮かぶ。

 そして、その1本の電話から、封印された過去への思いが堰を切ったようにほとばしり出ていく。

 これは室生犀星の『小景異情』の世界。まさに「ひとり都のゆふぐれにふるさとおもひ涙ぐむ」想いだっただろう。

 いい映画は優れた文学作品と同じく何度見てもいい。 

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2007年6月15日 (金)

縦書き

 仕事柄、いろいろなお宅にお邪魔する。

 訪問先で資料を探してもらっていたりするときに、応接間でひとりきりになることがある。そんなときは、退屈しのぎに部屋の中をグルリと見回す。

 美術品や絵画からはその家の主の趣味をうかがい知ることができる。あまりそちらの方面には明るくないが、掛け軸くらいだと読み方や意味を訊ねることがある。

 いつだったか横一列に書かれた漢字を左から読んで恥をかいたことがある。あれは右から読むらしい。今のボクたちには横書きが当たり前だが、江戸期まで日本語には横書きはなかった。だから横長の額に書かれている横書きに見える文字。あれは実は1行に1文字を書いた縦書きだそうだ

 昔の人は巻紙に筆でサラサラと縦に書いた。上から下への運筆の流れがある草書体などは、縦書きだからこそ生まれたもの。でも最近は縦書きの機会などめったにない。公用文もビジネス文書も横書きが主流で、縦書きが残っているのは新聞や雑誌、小説くらいだろうか。

 日本語を勉強する外国人は、日本語に縦書きと横書きがあるということに驚くらしい。もういいかげん学校の国語も横書きにしたらどうかと思うが、文学者などからは頑固な反対論があるとのこと。ボクのような合理主義者には、そのあたりの感性はよく分からない。 

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2007年5月16日 (水)

天満天神繁昌亭

 『天満天神繁昌亭』に行ってきた。1_2

  大阪ではずっと漫才優位で、落語の定席が復活したのは何と60年ぶりのこと。

 これは大阪落語界の悲願で、昨年9月の柿(こけら)落とし口上で、桂三枝(上方落語協会会長)が泣いたという話が週刊誌に出ていた。ボクも初モノ見たさでウズウズしていたのだが、ようやく念願がかなった。

 館内は思ったよりこじんまりしていて、2階席と合わせても250席くらいだろうか。昨夜は若手噺家ばかりの月例会で、客席も半分くらい。ボクは前から2列目に陣取って、前座から大喜利までたっぷり聴かせてもらった。

 名前も知らない噺家ばかりだったが、会場が狭い分だけ臨場感がある。噺家の汗や息づかいが伝わってきて結構楽しめた。観客は噺家の身内が多いらしく、トチると野次や激励が飛ぶ。円熟した名人芸もいいが、まだ未完成な若手の青臭さも新鮮で楽しい。

 ボクのおすすめは日本第1号女性落語家の露の都と、とぼけた味のある笑福亭仁福

 たっぷり笑わせてもらってお開きはちょうど9時。出口には噺家たちが待ち受けていて客に挨拶して送り出す。こういう