2008年7月 2日 (水)

ボーナス

 民間よりひと足早く、公務員に夏のボーナスが支給された。

 いつも公表されて気の毒だが、最高は福田総理と最高裁長官の544万円。次いで衆・参両院議長が506万円、国務大臣が397万円だそうだ。

 当然銀行振り込みだろうが、福田さんはいったい何に使うのか。金額は新聞を見たら分かるから、奥さんにもガラス張り。その中から、多少の小遣いをもらうのだろうか。

 こんな下世話なことが気になったのは、ちょっと昔のことを思い出したから。ボクが社会人になった昭和50年代の初め、わが社では希望者には給料やボーナスを現金で支給していた。

 われわれ下っ端はペラペラの袋だが、役員や部長クラスになると袋が立つ。それどころかボーナスになると札束が入りきらない。新入社員は目を丸くしたものだ。

 賞与支給式というのもあった。管理職が会議室に集められて、社長や副社長から訓示を聞かされる。そして恭しくボーナス袋を受け取って、それを自部署に持ち帰ってメンバーに配る。

 何人かは現金でもらう人がいた。家で夫(父親)の威厳を振りかざすのか、それとも家族には言えない使途でもあったのか、今となっては不明である。

 何百人もの現金支給となると、金種をそろえるだけでも大変だ。給料だから間違いは許されない。担当の女子社員が、前日遅くまで気の遠くなるような袋詰め作業をしていた。

 もっと昔は、ボーナス目当てに借金取りが押し寄せたり、麻雀の貸し借りを精算したり、またその日だけは正装した奥さんが会社に現金を取りに現れたりと、さまざまな非日常的風景が見られたらしい。

 その後何年かして、現金支給は廃止になった。今ではすべて銀行振り込みで、支給明細もネットで交付される。

 ボーナス日は通帳の残高が増えるだけで、心躍る特別な日にあらず。何だか寂しい。

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2008年6月26日 (木)

子取り

 幼い頃、いつも祖父や祖母から聞かされた話。

 「暗くなるまで遊んでたら、子取りが来るで!
 子取りに捕まったら、大きな袋に入れられて人買いに売られる。
 もう親がいくら頼んでも帰してくれへん。」

 夕食の食卓を囲みながら聞かされるその手の話は、身震いがするほど怖かった。祖父は、魚ヘンの漢字がいっぱい書かれた大きな湯呑み(寿司屋によくあるヤツ)に赤玉ポートワインを注ぎながら、神妙な表情で何度も同じことを言う。ボクは下を向いて、それを黙って聞いていた。

 当時、野犬狩りのことを「犬獲り」と呼んだ。軽トラックの荷台が檻になっていて、捕獲された野犬たちが連れて行かれるのを何度か見た。背後で「可愛そうに。屋台の串カツにされるんや」という祖母の声がした。

 その犬獲りを知っているだけに、子取りのイメージも目に浮かぶような気がした。「見せ物小屋でムチで叩かれて、綱渡りをさせられる」という脅しは身の毛がよだった。街角で物乞いをしている子供を見かけると「乞食に売られたんや」と、よく耳打ちされたものだ。

 その祖父母が亡くなって、もう30年以上経つ。もう今どき「子取り」なんて言葉を使う人もいないだろう。今の子供なら、幼稚園児でも、拉致とか誘拐とかいう言葉を知っている。

 小賢しそうな我が娘たちの横顔を見ながら、昔の子供の純真さを懐かしく思う。人さらいの影に怯えながら、『安寿姫と厨子王』の絵本を開いて眠りについた遥かな遠い日々のことを。

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2008年6月20日 (金)

記憶

 宮崎勤死刑囚に、死刑が執行された。

 鳩山法相の命令による死刑執行は、これで13人だそうだ。死刑確定から2年という異例の早さは秋葉原無差別殺傷事件の影響ではないかと、メディアでは囁かれている。

 あれから20年。時代の変化を象徴する事件だった。ひとりの犯罪者が社会の大きな関心や論議を呼んだ先駆けでもあり、責任能力についても法整備のきっかけになった。死刑制度の廃止をめぐる環境も大きく変わってきたが、こういう特殊な犯罪については極刑やむなしと思う。

 話は変わるが、ウチの父は国家公務員だった。

 2、3年に一度は必ず転勤がある職種で、古い出来事は「あれは○○にいたときのこと」というように、勤務地と関連付けて記憶している。

 ボクは残念ながら、サラリーマン時代の全期間(17年間)が東京暮らしだった。だから切れ目なく時間がつながっていて、父のような芸当ができない。

 でも、どこかの出張先などで知ったいくつかの出来事は、その場所と絡めて明確に覚えている。

 たとえば、美空ひばりが亡くなった日(1989.6.24)は業界の親睦旅行で水上温泉にいた。雨が降り続いていて、風呂上がりにテレビをつけたら、黒い縁取りのついたニュースが流れていた。

 ヒデとロザンナの出門英の訃報(1990.6.17)は、ハワイからの帰国便のスポーツ紙で知った。機内で洋画を見ながら『愛の奇跡』を口ずさんだ覚えがある。

 そして、この宮崎死刑囚が逮捕されたとき、ボクは札幌のホテルにいた。猟奇的な事件は世間の関心を集め、テレビニュースは延々と深夜まで同じ画像をくり返し伝えていた。また同じ日の参議院選では、宇野宗佑総理の女性問題で自民党が歴史的な大敗を喫した。おそらく報道現場はてんてこ舞いだったと思う。

 翌日の朝刊には、宇野総理退陣と宮崎逮捕の記事が1面トップに並んでいた。二つとも飛びぬけて大きな活字だった。

 あれから幾多の歳月が流れ、宇野元総理もすでに不帰の客となった、宮崎死刑囚の写真だけが当時のままというのも、何だか不思議である。

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2008年6月 4日 (水)

バンカース

 大阪も一昨日から梅雨入り。

 車で信号待ちをしていたら、大きなランドセルを背負って黄色い傘をさした1年生くらいの男の子が横断歩道を渡っていく。

 ちょっと半世紀ほどフラッシュバックしてみると、ボクが育った昭和30年代はまだ日本は戦後復興の真っ只中。大人たちも食べていくのに精一杯で、子供なんか放っとらかし。稽古ごとといっても、せいぜい習字かソロバンくらいのもので、今みたいな学習塾はなく、中学受験をする子もいなかった。学校には体罰もあったし、近所には悪さをすると叱ってくれる頑固親父もいた。今みたいに豊かではなかったが、子供には暮らしやすい時代だったと思う。

 学校から帰ると、ランドセルを玄関先に置いたまますぐに遊びに出かける。鉄砲玉みたいなもので、日が暮れるまで帰ってこない。

 だから、外で遊べない梅雨時はキライだった。恨めしそうに雨空を見上げながら、誰かの家で室内ゲームをする。よく野球盤や戦争将棋をした。野球盤は使いすぎて壊れてしまった。戦争将棋はよくできた頭脳ゲームだが、最近はさすがに見かけない。

 Bankers2そんな頃に画期的なゲームが現れた。『バンカース』である。自分が手に入れた資本を土地や会社に投資して財産を増やしていくゲームは、当時の子供たちには新鮮で面白かった。

 勝つためにはとにかく土地を買い占める必要があるが、サイコロまかせなのでなかなかうまくいかない。相手の土地に停まると通過料を払わなければならないから、多少の手元資金も必要。そして所持金がマイナスになったらゲームオーバーで負け。

 行ったこともない銀座通り、京橋、明治通りなんていう東京の一等地が出てくる。よし、ここで勝負だ!オモチャの札束を握る手にも力が入る。

 裸電球の脇にはヤマほど洗濯モノがかかっていたり、赤ん坊が横で泣いていたりする。そんな生活感あふれる狭い部屋で、子供たちはバブリーなゲームに興じる。

 これがモノポリーの日本版だと知ったのはずっと後のこと。でもボクには、素朴なバンカースのほうがずっと思い出深い。

 復刻版の説明書には「このバンカースはダイスの目だけに左右されず、智能と決断を思う様に活用して競技する、ゲームの最高峰であります。 」 とある。何だかカビ臭い文句だが、たしか当時も同じだったような気がする。

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2008年5月24日 (土)

ハンコの話

 もう30年も前の話だが、新入社員は文書係のような仕事をやらされた。

 勉強のために、契約書や見積書などの社外に提出する文書の形式審査をするのだ。チェックがすめば役員のところに持って行って社印をもらう。その社印を申請するための分厚い帳簿を捺印簿という。だからボクは、捺印簿担当。

 あるとき、いつものように社印をもらいに行くと、その役員が忙しかったのか、
  「オマエがここで代わりに押せ」という。

 言われるままに、朱肉をつけて10件ほどの文書に捺印した。

 「できました!」
 「見せてみろ…」

 その役員は一瞥するなり、
 「これじゃアカン!」

 どうも朱肉が薄かったのが、お気に召さなかったらしい。説教が始まる。
 「エーか!ハンコは会社の顔や!朱肉はタップリ付けて、堂々とまっすぐに押せ! ハンコの薄い会社や、曲がったハンコを押すような会社は信頼できん!」

 なるほど、ひとつ勉強になった。その役員はハンコを押す位置にもこだわりがあって、名前の最後の一文字の右半分と重ねて押すくらいがいちばん美しいという。

 まもなく、その役員は亡くなられた。あれから30年。ボクはいまだにその教えを固く守っている。それにしても、あんなことを教えてくれる人が今どきの会社にいるのだろうか。

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2008年5月22日 (木)

小人のプロレス

 ボクが物心ついた頃は、力道山の全盛時代。

 さすがにシャープ兄弟やルーテーズとの壮絶な死闘は覚えていないが、銀髪鬼・ブラッシーとの血みどろの闘いは今でも記憶に残っている。まだ家にテレビがなかったから、いつも隣の大衆食堂のモノクロ画面にかじりついていた。プロレスは善玉と悪役がハッキリしていて、子供から年寄りまで楽しめる大衆娯楽だった。

 その前座でときどきやっていたのが『小人のプロレス』。

 見せ物小屋のようなエンターテインメント。成人になっても背が伸びない小人のレスラー達が、コミカルにリングの上を走り回る。技と力がぶつかり合うプロレスとは一風違った色物に、ボクたちは腹をかかえて笑い転げたものだ。

 それがいつの間にか、彼らはテレビの表舞台から姿を消してしまった。 障害者を見せ物にすべきではないとして、自主規制がかかったらしい。今では「小人」という言葉自体が放送禁止用語で、ミゼットプロレスと言い替えるとか。しかしどうもこれは「みせかけのヒューマニズム」に思えてならない。

 健常者の安っぽい良心が、結果として彼らから職を奪ってしまったのだ。障害者を気の毒だと決めつけて隔離する社会は健全ではない。

 異形の姿に違和感を感じた視聴者がテレビ局にクレームをつけたのだろう。笑わせることを生業としていた小人レスラーたちは、差別を防ぐという大義名分の下でタレント生命を絶たれてしまった。ある小人プロレスラーの「同情するなら仕事をくれ」という言葉がすべてを語っている。

 何年か前、その最後の小人レスラーが人知れず亡くなったというニュースを見た。晩年は不遇だったらしい。彼らを社会から抹殺したのは、良識という美名に隠れたエゴ。願わくばもう一度、プロの芸を見たかった。

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2008年5月 6日 (火)

同窓会

 今日で連休も終わり。

 200856大阪城の見える高層ビルの個室を予約して、高校の同級生5人で懐石料理を肴に昼間から一杯飲(や)ってきた。

 窓の向こうに五月晴れの青空が広がる。すぐ目の前には母校の校舎。昔話や近況報告は尽きることもなく、あっという間の3時間。たまにはこういう贅沢な時間も悪くない。

 1週間ほど前の夜のこと。もう何年も年賀状だけの付き合いだった同級生のひとりから、急に電話が掛かってきた。最近帰阪した友達がいるので、都合のつくメンバーだけで食事をしようというお誘いだった。

 長年東京で暮らしていたこともあって、ボクはこの類いの集まりにはあまり出たことがない。行ってみたら、30年ぶりというのもいた。体型や髪型、顔のシワやたるみは歳月を隠せず、初めは何となく他人行儀な会話。でもアルコールが進むにつれて、いつの間にかオレオマエの懐かしい世界に戻っていく。自然と声が大きくなる。笑い声が部屋の外にまで響き渡る。お互い余計な気遣いもせず、ウラもオモテもない。こうした利害関係のない付き合いも気楽でいいものだ。

 秋口に再会を約してお開き。次回は女性陣にも声をかけようということになったが、果たして顔と名前が一致するかどうか。

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2008年3月30日 (日)

思い出

 4月から大学生になる甥が、京都でひとり暮らしを始めるらしい。昔なら下宿屋、今だと学生用マンションとでもいうのだろうか。

 無理すれば、自宅から通えない距離でもない。でも親から離れた単身生活も、長い人生の中でいい経験になるだろう。

 ボクも大学は家から1時間20分ほどだった。初めのうちは自宅通学していて、最後の1年は勉強に専念するという理由で下宿させてもらった。

 そして今振り返ると、1年だけでも下宿したことで、京都という町の印象がかなり異なっている。同じ大学に通うにしても、大阪の自宅から通うのと京都で下宿するのとはやはり違う。

 何もない八畳一間のガランとした部屋。もちろんテレビもない。

 冬の朝、窓を開けるとうっすらと雪景色。自転車の轍(わだち)をつけながら大学へ。生協食堂で簡単な朝食をとって、図書館で新聞に目を通す。その後は夕方まで大学の構内にいるから、京都で暮らしているといっても、社寺を巡ることも盛り場に出ることもない。たまにデモに誘われる程度のノンポリ学生で、小脇に抱えていたのは当時流行りの『朝日ジャーナル』。銭湯通いも自転車で、ラムネを飲みながら『神田川』をよく聴いた。そして受験勉強の気晴らしは、深夜放送のヤングリクエスト。

 週末には自宅に帰っていたものの、ふだんの生活はこうして下宿を中心に組み立てられていく。

 暮らすということは、その場所を基点にしてものごとを考えるということだ。その地で根を下ろして初めて分かることがある。同じものを食べても味が違うし、同じ景色でも見え方が異なる。柔軟な頭に吸収できることは多いはず。

 あの頃の新鮮な気持ちを懐かしく思う。新しいスタートに幸あれ!

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2008年3月 3日 (月)

ひな祭り

 今日はひな祭り。

 ボクが大学を受験したのは昭和48年。一期校の入試は3月3日から5日までの3日間だった。まだセンター試験も共通一次試験もなかった頃の話。前期とか後期とかややこしい日程もなかったが、当時の国公立大学は一期校と二期校に分かれていた。受験の機会を2度与えるということだったらしいが、学校格差を助長するという理由で数年後に廃止された。

 友達と一緒に、前日から金閣寺近くの公営施設に泊まっていた。初日は粉雪が散らつく寒い日。宿舎で作ってもらった弁当を持って、市電で試験会場に向かった。厚手のランチコートにマフラーに手袋という重装備で出かけたが、教室内は暑すぎるほど暖房が効いていた。

 そのときの問題用紙は、今でも捨てられずに残っている。退色したワラ半紙に活版印刷。今その問題を読んでも何のことやらさっぱり分からないが、たしかに自分の筆跡が走り書きのようにアチコチに残っている。こうして何十年も経ってから、過去の自分と対峙するのは懐かしく楽しい。

 最終日。試験会場から出て深呼吸。空を見上げたら、重たそうな雪雲が比叡山の頂きを覆っている。生まれ育った大阪とは何となく違う空気に気づく。

 友達数人と連れ立って、四条河原町の喫茶店に入った。当時流行りの熱いウインナーコーヒーをすすりながら、みんな無言で雑踏をボンヤリと眺めていた。この街で学生時代を過ごすのかという漠然とした思いが胸の内に湧いてきた瞬間である。まだ合格発表もないのに・・・

 そして京阪四条駅に向かう道。不二家の店頭に、外(はず)し忘れたひな祭りケーキのポスターが掛かっていたような記憶がある。

 今でもその不二家は健在。この店の前を通るたびに、その遠い記憶がよみがえる。

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2008年1月 7日 (月)

凧と独楽

 正月に淀川沿いを車で走っていたら、河川敷でたくさん凧が揚がっていた。

 北風をいっぱいに受けて、気持ちよさそうに大空を舞っている。でもよく見たら、揚げているのはみんな大人。あまり近ごろの子供たちは凧揚げなどしないのだろうか。ボクたちの頃は、近所の公園に集まってみんなで凧揚げを競った。勉強などできなくても、凧揚げが上手いヤツは一目置かれたものだ。

 独楽でもよく遊んだ。投げて手のひらに乗せるくらいは今でもできる。そういえば長女が小学校で作ってきた独楽を器用に操って拍手喝采。ちょっと父親の権威を見せつけたことがあった。大道芸人じゃあるまいし、こんなことできても仕方がないのだが…

 羽根つき、カルタとり、福笑いなんかは、もっと昔の話。ボクたちの時代にはもう廃れていた。

 自分で工夫して友達より優れた遊び道具を作ろうとする熱意が、子供の自主性を育てる。高価なゲームでテクニックを競うのもいいけれど、貧しい時代でも子供は勝手に遊びを見つけてくるものだ。

 河川敷に舞う凧を見て思う。こういう技術も子供たちに伝承していってほしい。

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2008年1月 5日 (土)

5円玉

 コンビニでもらったお釣りの中に、輝きの鈍い5円玉が入っていた。

 小銭入れにしまおうとしてふとウラを見たら、何と昭和24年製造。日本國と旧字で書いてある。ボクが生まれる前から60年近くずっと働き続けていたのだ。

 買い物をしても、すぐに千円札を出すほうだから、小銭はたまる一方。ましてや5円玉や1円玉を出して使うことなどまずない。先日の新聞で、5円玉や1円玉の流通量が減っているという記事を見たが、電子マネーの普及が原因だとか。

 目をつぶると、はるか遠い昔の記憶が浮かぶ。

 子供たちは、めいめいの小さい手に5円玉を握りしめていた。麦藁帽子をかぶってランニング姿のおじさんが、自転車の後ろにボックスを載せて、チリンチリンと鈴を鳴らしながらアイスキャンデーを売りに来る。1本5円。冷たくて美味かった。急いで頬張ると、頭がツーンと痛くなる。

 合成着色料いっぱいのジュースや駄菓子、ラムネなども5円で買えた。親の目を盗んで買った肉屋のコロッケも5円。日本中どこにでも届くハガキまで5円。

 今だと子供の小遣いにもならないし、初詣のお賽銭でも最低100円だろう。小銭入れの隅っこで遠慮がちに埋もれている姿はちょっと気の毒。日本銀行への引渡し価格を調べたら1個7円(ちなみに1万円札は22.2円、千円札は14.5円)で、作るだけ赤字になる。

 ところでこの5円玉、生まれてから60年もの間、どんな旅をして、どれだけの人生を見てきたのだろう。ひょっとして、幼なかったボクの手のひらのほのかな温もりを覚えているかもしれない。

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2007年12月23日 (日)

家庭盤

 昨日から学校も冬休み。

 いまだにその言葉を聞いただけで、遠い記憶が蘇って何やら心が弾む。子供にしてみたら、クリスマスにお正月。とても楽しい夢のような2週間だった。

 我が家の娘たちは早くにサンタクロースを卒業してしまったが、昔の子供たちはずいぶん大きくなるまで信じていた。寒い朝、目を覚まして枕元にプラモデルやゲームを見つけたときの喜び。デパートの包装紙に入っているのがいつも不思議だったが、まだ夢にあふれたいい時代だった。

 冬休みには、こたつでミカンを食べながら家族や友達と『ゲーム盤』をした。今の子供たちはDSやWiiに夢中だが、ボクたちの頃はいつも誰かの家に集まってゲーム盤に興じていたものだ。

 Toy_27 野球盤やバンカース(日本版モノポリー)でもよく遊んだが、いちばん単純な『家庭盤』というのをボロボロになるまで使った。これはダイヤモンドゲームやコピットゲームなどが1つの盤面の裏表に印刷されているお得なセット。

 当時も「子供は表で遊んでこい」と大人たちに怒られたが、昨今のテレビゲームと違ってまだ会話が成立する室内娯楽だった。

 おもちゃ屋さんに聞くと、近ごろは複数の人間で遊ぶゲームは売れないという。かさばる割りには単価が安いので売りたがらないということもあるかもしれない。ゲーム機なら何万円とするし、ちっぽけなゲームソフトだって5千円近くする。

 7並べに神経衰弱…子供ならトランプでも充分楽しめると思うが、まったく見向きもしない。

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2007年12月 8日 (土)

マイホーム

 週末の朝刊は、不動産のチラシで膨れ上がっている。

 我が家の近くでは、ファミリータイプの新築マンションは2千万円台からあるし、戸建て住宅でも3千万円台の前半が多い。自分の感覚としても、最近はそのくらいの数字に慣れてしまって、家の値段というのはだいたいそんなものだと思い込んでいる。

 でも、昔はそうではなかった。ちょっと時計の針を15年ほど戻してみよう。

 ボクはその頃、東京でマイホームを探していた。まだ土地の値段も高かった。当時住んでいた大田区あたりだと、坪300万円近くしたと思う。17、8坪のネコの額(ひたい)みたいな土地に、マッチ箱のような安普請の3階建の家を建てて、ナンと7千万円近くするのである。

 週末には妻と二人で広告チラシを丹念にチェックして、興味があれば仲介業者に電話をする。彼らは必ずといっていいほど高級車で迎えにきて現地を案内してくれる。運転しながらも後部座席にチラチラ目をやるのは、客の値踏みをしていたのだろうか。バブルで鼻息も荒く、手数料で稼ぐ商売は羽振りが良さそうだった。

 こうしてボクたち夫婦は、生まれたばかりの長女を連れて何十件という物件を見て回った。そんな生活が半年くらいは続いたと思う。

 物件を見るたびにため息が出る。こんなちっぽけな家に何千万円というローンを組んで、返していけるだろうか。

 こちらの胸の内を見透かすように「今買わないと、マイホームなんて一生買えませんよ」と輸入スーツをゆったり着こなした業者が高飛車に誘導する。正直悩んだ物件もあった。しかしボクは最終的にはどうしても思い切れなかった。そんなウサギ小屋のローンを定年まで抱えることは、自分のバランス感覚が許さなかったのである。

 あれから15年。たまに妻が東京の実家から、不動産のチラシを持って帰ってきてボクに見せる。どうやらまたミニバブル。目黒・大田区あたりでは5千万円以下の新築物件などないし、ちょっとした家には億がつく。いったいどんな人が買うのだろうと気の毒になる。

 あのとき買わなかったのは、人生最良の選択のひとつ。当時に比べても、今の自分の不動産相場感覚のほうがずっとまっとうだと確信している。

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2007年12月 1日 (土)

廃れた商売

 ちょっと前に、ボクが長女に「駅前のレコード屋で・・・」という言い方をしたことがある。するとすぐさま、そんな店はないと笑われた。たしかに今どきレコードなんてどこを探しても見つからない。

 こんなふうに、時代の流れとともに廃れてしまった商売もいろいろある。幼い頃、実家の近くに、鍋・釜などの金物の壊れた部分を修理する「鋳掛屋(いかけや)」という看板を上げた店があった。「目立屋」というのもあって、これは鈍くなったノコギリなどの目を磨いてよく切れるようにする商売。NTTのタウンページを見たが、さすがにどちらも出ていない。

 そんなことを思っていたら、図書館で『お江戸の意外な商売事情』(中江克己)という本が目に止まった。当時の江戸は人口100万人を抱える世界最大の消費都市。食べ物・ファッション・娯楽・リサイクル業・現代でいう情報産業と、じつにさまざまな商売が庶民生活を支えていた。この本は「売」「買」「直」「衣」「食」「衛」「運」「貸」「楽」「季」という漢字一文字で10分野に分類して、152の商売を紹介している。

 たとえば「読売」という商売。寺子屋があっても文字が読めない人もいた。そういう人たちに、瓦版を読みながら売り歩いたのが、この商売。まさに読み売り新聞の先駆けかも。

 「冷水売り」という商売もあった。江戸は上水道が発達していたが、暑い夏に冷えた美味い水を売り歩く商売があったのだ。

 それ以外にも「羅宇屋(らうや)」「蝋燭(ろうそく)の流れ買い」「猫の蚤取り」「貸褌(ふんどし)」「古骨買い」「鳥の糞買い」など、もうお目にかかれない不思議な商売がたくさん出ている。

 たまに仕事の関係で、「日本標準職業分類」(総務省)を見ることがある。10年ほど前に全面改訂されて、「ソムリエ」「ホームヘルパー」「ゲームプログラマー」「プロサッカー選手」「コピーライター」などが新たに加わった。逆に消えたのは「採炭員」「坑内運搬員」「踏切警手」「幇間(ほうかん)」など。「バナナのたたき売り」もそのときに消えたのだが、それまで職業として分類されていたことに驚かされる。

 だんだんカタカナの職業が増えてきて、お年寄りには分かりにくい。なくなった言葉の中で、ボクが好きなのは「幇間」。いわゆる「たいこ持ち」のことで、酒宴で客の機嫌をとって興を助ける職業をいう。まだまだ役所やサラリーマン社会では多いけど…

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2007年10月14日 (日)

秘密基地

 ボクたちがまだ小学校に上がるか上がらないかくらいの頃、いちばん人気のあった遊びは『秘密基地ごっこ』だった。

 あの頃はまだ大阪市内でも、有刺鉄線を張った原っぱがあちこちに残っていた。ちょうど子供の背丈ほどの雑草が伸びていて、視界が妨げられるのも好都合。隅のほうには廃材や段ボール、トタンに古タイヤなどが無造作に積まれていた。そしてその中で腕白坊主たちは汗だくになって秘密基地を作って遊んだものだ。

 もちろんボクたちは戦争を知らない。でも戦車や軍艦のプラモデルを組み立てて、『紫電改のタカ』など戦争モノの漫画を読みふけっていた世代だ。当時の大人たちはみんな戦争経験者だったし、社会全体がまだ戦争の影を引きずっていたのだと思う。

 戦争ごっこというのは、ひょっとしたらもっと昔は防空壕や焼け跡のバラックなどを使った遊びだったのかもしれない。そう考えたら、戦争が終わって60年以上もたった今、そんな言葉は遠の昔に死語になっているはずだった。

 ところがウチの娘たちが幼い頃、押入れの中にクッションやおもちゃを持ち込んで、そこに『秘密基地』という名前をつけていると聞いて、ちょっと驚いたことがあった。

 突然、幼い頃にフラッシュバック・・・近所の原っぱで嗅いだ濃い草熱(いき)れと真っ赤な夕日の記憶が蘇ってきた。

 いつの時代でも、子供というのは狭いところに閉じこもって自分の居場所を確保すると安心するのだろうか。あれから50年近くたっても、いまだに狭い自室でパソコンを開いてくつろいでいる自分。精神年齢はあの頃のままで、ちっとも成長していないらしい。

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2007年6月 4日 (月)

彦根の大叔父

 今朝、彦根の叔父が亡くなった。享年93歳の大往生である。

 正確にいえば母の叔父だから、ボクからすると大叔父になる。しかし、物心ついた頃からそれ以上に濃い付き合いをさせてもらっていた。

 ウチの両親は二人とも大阪市内の出身。だからボクには田舎といえるところがなかった。母も事情があってしばらく実家との往来が途絶えていたから、ボクたちは夏休みになると、よく母に連れられてこの彦根の大叔父の家に行った。

 当時の彦根にはまだ自然が残っていた。漁師顔負けの大叔父は、芹川(せりがわ)に投網(とあみ)を投げて鮎を獲った。網の中で銀色の鮎が真夏の太陽にキラキラ輝いている光景が脳裏に焼きついている。ウナギもよく獲りに行った。獲物は大叔父がすべて自分で捌(さば)く。ひ弱な都会っ子だったボクは、その姿を見ていてしばらくは蒲焼が食べられなかった。

 彦根あたりでは各家庭でフナ寿司を漬ける。最近デパートなどで売られているのとは違って、独特の臭いが強くて食べにくい。ボクはこれが大嫌いで、よくからかわれたものだ。

 今みたいに子供の水泳教室もなかったから、小学校に入るまでボクは金鎚だった。琵琶湖に無理やり沈められて泳げるようになったのも、大叔父たちのお陰である。

 何度かスッポン釣りにも行った。夕方、田んぼにスルメを仕掛けておく。うまくいけば翌朝スッポンが掛かっているのだが、指を食いちぎられると教わっていたから本当に怖かった。そのスッポンの首を落としてリンゴ汁と混ぜて生血を吸うなど、悪魔の所業かと思っていつも目を伏せていた。今でも親戚が集まるとそのときのボクの姿は笑い種である。

 今日の通夜で安らかな死に顔を見てきた。赤銅色に輝いていた顔は青白くなって、身体も二回りほど小さくなっていた。

 あれから50年近くたって、彦根にも都市化の波が忍び寄る。鮎も減ったし、どこを探してもスッポンなど見当たらない。帰りの電車の窓から闇の彼方を眺めながら、遠い昔を思う。そしてひとつの時代が去ってしまったことをぼんやりと実感していた。

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2007年1月31日 (水)

紙芝居

 「カチーン」「カチーン」と拍子木の音が響くと、子供たちが公園の一角に集まってくる。
 紙芝居のおじさんがやってきたのだ。

 5円玉を渡すと、おじさんは水あめや型抜き、ソースせんべい、梅ジャムなどをくれる。水あめは二つ折にした割り箸をこねくり回して、白くなるまで練りあげる。おじさんは子供たちをグルっと見回して「ただ見はあかんで!」と叫ぶ。たいてい一人や二人、紙芝居だけ見ようとちゃっかりもぐりこんでいる子供がいるからだ。

 そのうちに紙芝居が始まる。おじさんは幾通りもの声色を使って冒険活劇を演じる。子供たちは水あめをぺろぺろ舐めながら、薄汚れた紙芝居の絵に見入っている。そこには、動かない絵に生命を吹き込む職人芸があった。まだ一般家庭にテレビが普及する前の話である。

 ワンステージが終わると最後にトンチクイズ。正解するとまた水あめがもらえた。一仕事終えたおじさんは、紙芝居の道具一式を器用に自転車に積み込んで、疾風のように次の町に去っていく。

 あとで知った話だが、この紙芝居のおじさんたちにもたいへんな苦労があったらしい。
 戦後GHQは、軍国主義に協力したとしてすべての紙芝居を回収して焼却してしまった。そしてこれを健全な形で復興するために各都道府県で紙芝居条例というのができて、紙芝居業者試験が実施された。当時の資料を見ると、筆記試験(国語、算数、社会)、口述試験(児童福祉、保健衛生、公安交通)と実地試験があって、合格者には免許証が交付され、公報にも告示されたらしい。

 そして幼いボクたちが何も知らずに見ていたのは、そうした難しい試験を乗り越えてきたおじさんたちの名人芸だったのだ。

 日本の高度成長とともに庶民生活が急速に豊かになっていく70年代。それに比べてボクたちが育った60年代は、まだ敗戦の影が色濃く残っていた。公園には紙芝居や飴細工が来ていたし、お米と砂糖を持っていくとポン菓子を作ってくれるおばさんもいた。子供の社交場は駄菓子屋と貸し本屋。まだ車も少なかったから、チョークで道に落書きして遊んでいた。

 あの時代は、親たちも食べていくのに精一杯だった。でもモノクロ写真で見た子供たちの瞳が、みんなキラキラと光り輝いているのはなぜだろう。

 それに比べて今は・・・な~んて話はやめましょう。

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2006年8月24日 (木)

昔の夏休み

 もう夏休みも残り1週間。子供たちは宿題に追われ、妻は学校が始まるのを待ち遠しく思っている。

 ボクが小学生の頃の夏休みの遠い記憶・・・

 まず朝は6時からのラジオ体操で始まる。ウチのすぐ近所で大音響のスピーカーが鳴るから、イヤでも目が覚める。アチコチの家から寝ぼけ眼(まなこ)の子供たちが姿を現す。体操を終えると、首からぶら下げた出席カードに近所のオジさんがハンコを押してくれる。

 宿題は今みたいに多くはなかった。ウチの学校は『夏の友』とかいう宿題帳があった。それ以外は日記を書かされた。その1冊が今でも残っているが、毎日大きな字で「8月○日、はれ、今日は○○クンと△△クンと□□クンと・・・・××をして遊びました」のオンパレード。毎日 友達の名前と遊びの種類だけで紙面を稼いでいて、それでもグルグルの五重マルがついている。先生もよく見ていなかったのだろう。

 学校のプールは毎日通った。進級テストに合格すると、水泳帽の線が一本ずつ増えていく。プールから帰ったら扇風機をかけて昼寝。起きたらラムネを飲みながら読書感想文のための本を読む。でも、課題図書というのはだいたい退屈で、祖父や父の本をコッソリ読んでいた。

 自由研究というのもあった。空き箱を水族館に見立てて、紙で作った魚を糸でぶら下げて、フタに青いセロファンをつけたら一丁上がりなんてヤツ。昆虫採集もよくやったが、大阪には昆虫が少なかった。

 夏休みには、近くの映画館で『東映まんがまつり』をやっていた。白蛇伝、わんわん忠臣蔵なんかの大きな看板を覚えているが、それもチャンと日記に残っている。

 夏祭りの夜店(縁日)は楽しかった。特に『東京コロッケ』というのが好きだった。最初にお金を払ってパチンコをする。打ったパチンコ玉が、5とか8とか書いたチューリップに吸い込まれると、その数字の数だけ小さなコロッケがもらえる。コロッケといっても直径1センチくらいの小さなもので、串にその数だけさしてソースにつけたのを食べながら歩く。あの頃は、まだ見ぬ東京ではあんな小さなコロッケを食べるのだと信じていた。

 午後の打ち水、風鈴、蚊取り線香、縁台での戦争将棋、風呂上りの天花粉(てんかふん)、ハエ叩き(ハエ取り紙というのもあった)、線香花火、銭湯のフルーツ牛乳・・・みんな最近あまり見かけなくなった。

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2006年5月14日 (日)

がっちり食いましょう

 正統派大阪人の日曜日のお昼。それは『たこ焼き』か『お好み焼き』に決まっている。

 近頃は週休2日制がすっかり定着してしまったが、ボクたちが子供の頃は、土曜は会社も出勤だったし、もちろん学校もあった。だから日曜のありがたさが今とは違う。

 ウチの実家は、日曜の昼はたいていタコ焼きを焼いて食べながら吉本新喜劇を見ていた。当然タコ焼き以外のメニューもあったとは思うが、まったく思い出せない。毎週、歯に青海苔と紅生姜をつけながら、ワンパターンのギャグに笑い転げていたのだから、ノー天気というしかない。平参平、岡八郎、花紀京、船場太郎なんかのドタバタコメディを、毎回飽きもせずに見ていた。

 それが終わったら、続いていとし・こいし司会の『がっちり買いまショウ』が始まる。「3万円・5万円・10万円 運命の分かれ道・・・」という早口のナレーションが懐かしい。この手の買い物番組は、家電などのオープン価格導入ですっかり陰を潜めてしまった。提供はオリエンタルカレーで、番組の最後にカレーを食べながら「ではまた来週もがっちり食いまショウ!」とボケるシーンは毎度お馴染み。

 その後は若井はんじ・けんじ司会の『ダイビングクイズ』。答えを間違えたら滑り台の傾斜がきつくなって、そのうち風船の海に落ちるヤツ。このスポンサーはたしか魔法瓶メーカーだったような気がする。

 こうして考えると、関西のテレビ番組はお笑いタレントの宝庫だった。そういえば、吉本興業に入りたいと卒業文集に書いていた同級生がいたが、その後どうなったんだろう。数十年経って、久々にお好み焼きを食べながら、ふと遠い昔を思い出した。

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2006年5月10日 (水)

寮のおばさん

 今年も、多くの方々から年賀状を頂いた。その半分以上がパソコン製だが、その中に混じってひときわ目立つ達筆の賀状があった。勤めていた会社の独身寮の寮母だったNさん。独身時代のボクが、母親のように接してきた人である。

 ボクが長年暮らしていたその寮は、新宿から京王新線で1駅目の初台にあった。会社が分譲マンションの一部を買い取って独身寮に改造していたものだが、独身貴族たちには至れり尽くせりの施設。今でも、新宿高層ビル群の美しい夜景がハッキリと目に浮かぶ。ボクは丸11年近くその寮で牢名主のように暮らしていて、とりわけNさんにはお世話になった。毎朝7時に部屋をノックして起こしてくれるし、朝食を食べないで出て行こうとすると叱ってくれる。ボクの好き嫌いもよく知っていて、茄子の味噌汁の日はボクの分だけ違う具の味噌汁を作ってくれている。たまに早く帰ると、体調を心配して雑炊を作ってくれたりもする。ボクの婚期が遅れたのは、快適な寮生活のせいだと口の悪い仲間たちはいう。

 そのNさんが定年を迎えたとき、寮で盛大な送別会をした。懐かしいOBたちもたくさん顔を揃えたが、役員だろうが部長だろうがNさんの前ではただの寮生で、昔の武勇談などでからかわれている姿は微笑ましかった。

 Nさんは、今は郷里の函館でのんびりと余生を送っている。年賀状だけのお付き合いになって20年近く。もうかなりの高齢のはずだが、見慣れた筆跡の年賀状を見るとホッと安堵して独身寮時代を思い出す。

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2006年4月24日 (月)

昔のCM

 数日前のこと、NHK衛星放送で『逃亡者』を放送していた。

 中学生の頃に夢中になった海外ドラマだ。身の覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告された青年医師 リチャード・キンブル(デビッド・ジャンセン)がジェラード警部に追われながら真犯人の片腕の男を探し求めるという話。これが滅法面白くて、「リチャード・キンブル、職業医師。正しかるべき正義も時として・・・」で始まるナレーションをすべて暗記していた。

 再放送を見ていて、欲をいえば当時のCMも一緒に流してくれたらもっといいのにと思った。あの頃はまだ単独スポンサーの時代で、番組そのものとCMとがセットで頭に残っている。たしかボクの記憶だと『逃亡者』はバイタリス(ライオン歯磨)のCMを流していたと思う。

 つまらないことは記憶に残っているもので、『ルーシーショー』は長嶋選手が出てくる三共のルル、『名犬ラッシー』は「ワッワッワッーワが三つ」のミツワ石鹸だったことはハッキリ覚えている。

 あの頃は、出演者がいきなり宣伝を始める生CMというのがあった。『頓馬天狗』の大村昆は、頓馬天狗の衣装のままでいきなり「擦り傷、切り傷にはオロナイン軟膏」と言い始める。さらに、番組の主題歌の中には「姓はオロナイン、名は軟膏」という意味不明の歌詞まで織り込まれている。『てなもんや三度笠』の「あたり前田のクラッカー」とともに、40年経った今でもボクの頭の奥底に残っているのだから、CMとしての宣伝効果は絶大という他ない。

 昔のCMは直截的で分かりやすかった。それに比べたら昨今のCMは、最後まで見ていても何のCMか判別できないような芸術作品が多い。商品名を連呼するだけのCMは品がないということで敬遠されたのだろうか。

 逆にちっとも変わり映えしないのは、選挙カーのアナウンス。先週、千葉7区補選のニュースを見ていたら、相変わらず候補者の名前だけを連呼している。コッチももう少しお洒落に進化できませんか。

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2006年3月14日 (火)

牛乳瓶のフタ

 ちょっと下火になったが、ついこの間まで『遊戯王カード』だの『ポケモンカード』だのというのが子供たちの間で流行っていた。レアモノだと、店頭のガラスケースに、1枚数千円の値がついて並んでいた。あんな製造原価が10円もしないような紙切れをそんな高値で売りつける悪どい商法を苦々しく思っていたが、子供の言いなりに買い与える親たちもどうかしている。その一方で、給食費も払えない、文房具も買ってもらえないという就学援助家庭が増えてきていて、社会的格差が子供の世界にまで大きな影を落とし始めている。

 子供というのは何でも集めるのが好きなのだ。そして、それを友達と競う。ボクたちが子供の頃に、1枚5円くらいの薄くて四角いガムがあった。そのガムには、プロ野球選手や自動車の絵が印刷されたカードがついていた。子供は、カードが欲しくてガムを買う。ところが、同じ流通経路だと同じようなカードばかりが出るようになっているらしく、なかなか種類が増えない。友達と交換したり、珍しいカードを見せびらかしたりするのがささやかな楽しみだったが、おとり商法を規制する法律ができて、その手の商品は姿を消してしまった。1日10円の小遣いを握りしめて、買おうか買うまいかと駄菓子屋の店先で頭を悩ました幼い日が懐かしい。

 そのうちに、今度は牛乳瓶の紙ブタを集め始めた。今の子供は牛乳といえば紙パックしか知らないだろうが、当時の牛乳は瓶に入っていて、紙ブタがしてあった。ちなみに駄菓子屋で『セン抜き』といえば、今でも使うビール瓶などのセン抜き以外に、ラムネ用のセン抜きと、牛乳用のセン抜き(プラスチックの本体から短い針が出たモノ)があって、悪童たちが持って帰らないように、ゴム紐で天井から並べてぶら下げられていた。

 当時、その牛乳瓶のフタに息を吹きかけてひっくり返すような遊びがあった。負けるとそのフタを相手に取られてしまうのだが、ボクたちはその勝負事にかなり入れ込んでいて、牛乳ブタをいっぱい詰めた袋をぶら下げて、いつも近所を駆けずり回っていた。

 雪印、森永、明治など大手メーカーの牛乳ブタはありふれていて、ボクたち子供の世界では値打ちがなかった。そして、ボクが初めて手に入れた珍品は『いかるが牛乳』だった。これは友達との真剣勝負で勝ち取ったもので、取られた友達は非常に悔しがった。でも、なぜだかボクはこれを『いるかが』と誤読していて、長い間イルカの牛乳だと信じていた。後に、学校の歴史で『斑鳩(いかるが)』と読むことを知ったときの驚きは今も忘れない。その薄汚れたフタは、長い間机の引き出しの隅に転がっていて、学校から帰ったボクは、そのフタの文字をそっと確認した。『いるかが』ではなく『いかるが』と書かれていたことは言うまでもない。

 昨日の電車で、高価なカードを友達に見せびらかしている男の子を見ていて、ふとそんな遠い昔のことを思い出した。子供の好奇心を満たすのに、高いお金を費やすのは見当外れである。

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2006年1月 2日 (月)

昭和も遠くなりにけり

 今朝 テレビをつけたら、『懐かしの昭和・・・』というタイトルの歌謡番組をやっていた。しばらく見ていたら、ボクでも知っているような歌手が次々と出てくる。

 考えてみたら、もう今年で平成18年。亡くなった小渕さんが官房長官のときに、『平成』と筆書きされた和紙を掲げて記者会見してから 早17年近く経ったことになる。ボクたちが生まれ育った昭和という時代も、『懐かしの』という形容詞が似合うようになってきたのは感慨深い。

 昨年 祝日法が改正され、来年から4月29日が『昭和の日』として祝日になる。そして、その趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」とされている。戦争、敗戦、占領、復興、高度成長と、ズッシリと重みのある昭和という時代を、歴史の教訓として次の世代に語り継いでいくことを忘れてはなるまい。 でも、わざわざ祝日にしなければ時の流れの中に風化してしまうというのも、その昭和世代としては複雑な思いである。

 明治の俳人 中村草田男が 「降る雪や 明治は遠く なりにけり」 と 明治への憧憬と追憶を詠んだのは、昭和6年母校の小学校を訪れたときのことだそうだ。そして、昭和も八十路となり、戦後も還暦を迎えた。学校で習ったこの句を、改めてわれわれの『昭和』に置き換えて眺めてみると、何となく作者の気持ちが分かるような気にもなる。でも昨今は、時間の変化が速いので、あまり感傷に浸っている余裕はないかもしれない。

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2005年12月11日 (日)

京都の夜

 昨夜、京都で学生時代の友達と忘年会をした。

 集まったのは5人で、そのうちの1人には卒業以来30年近く会ったことがなかった。先に着いたボクが座敷で待っていたら、次に彼が入ってきた。

 「久しぶり! 分かる?」と言いながら、ボクの向かいに腰を下ろしてお互いの近況報告や昔話が始まった。顔かたちは学生時代のままだが、目尻の皺の数や髪型の変化に過ぎ去った年月の重みを感じる。長年の社会人経験のなせる業か、お互いの位置関係を確かめ合うような、少し距離のある言葉使い。昔のように「オレオマエ」ではないところに、妙なまどろっこしさを感じる。

 その後、他の仲間たちも順次入ってきた。彼らには何年かごとに会っているから、その都度、頭の中の画像が更新されている。でも、逆に学生時代の姿はすぐには思い浮かばない。数年前の高校の同窓会でも似たような経験をしたが、もっと年をとってから再会したら、それこそ浦島太郎の心境だろうか。

 帰りに河原町通りを歩いていたら、少し街の様子が変わっていた。こんなビルは昔はなかったはずだと思いつつ、その前は何が建っていたのかが思い出せない。でも、これも数ヶ月に一度は京都に来ているからで、何十年ぶりかに来たら気がついたかもしれない。

 少しずつの変化の総和は大きな変化になるが、日常生活の中でこれはなかなか意識されないことが多い。毎日顔を会わせている家族だと、日々の微妙な変化が分からない。ボクなどは我が子の成長にも気づかず、数年前の写真を見て驚くことがよくある。カエルを熱い湯に入れると驚いて飛び出すが、冷水から少しずつ温めていくと、感知できずに茹だって死んでしまう。日々の仕事や対人関係でも、直前との比較だけでなく、もっと長い期間で比較してみたら、大きな変化が感じ取れるかもしれない。

 年のせいか酒の飲み方も大人しくなって、10時前には解散となった。学生時代は、深夜まで酔い潰れて、河原町から誰かの下宿まで千鳥足で帰ったものだが・・・

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2005年10月14日 (金)

大阪城

 子供の頃から、大阪城を見て育った。

 実家は、その天守閣から北に2kmくらいのところ。昔はまわりにあまり高い建物がなかったので、実家の2階の物干し場から大阪城がよく見えた。

 高校は、大阪城の真ん前だった。校庭が狭かったので、運動部の練習はみんな大阪城公園をグランド代わりにしていた。ランニングをしてから、公園で柔軟体操をするのが放課後の日課だった。

 大阪市内は自然が少ないといわれるが、その中で大阪城公園は、緑溢れる都心のオアシスだ。冬から春にかけての梅林や桃、桜は有名だが、新緑や紅葉の頃も美しい。とりわけ、晩秋のハゼノキの紅葉は素晴らしい。天守閣の石垣から大きく枝を張り出して、鮮やかな真紅の姿を水面に映し出す。大阪城北側の極楽橋あたりから見事なハゼノキが見えるが、高校時代のボクは、そのあたりでいつも息切れして、歯を食いしばって走っていたことを思い出す。

 また、大阪城は野鳥の宝庫でもある。そちらの方面はあまり詳しくないが、冬場のカワセミ(翡翠)くらいは分かる。カワセミは、「飛ぶ宝石」と言われるくらい美しい鳥で、堀の水面を舐めるように飛んで、水中の魚を捕食する。厳寒期には、大勢のカメラマンが白い吐息を潜めて一瞬のシャッターチャンスを待ち受けているが、それをあざ笑うように、すばしこくすり抜けていく。

 そんな多くの思い出の詰まった大阪城の外周道路を、今は、週に2、3回車で走っている。ランニングしている痩せた高校生の背中に出くわすと、思わず三十数年前にタイムスリップしそうである。

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2005年7月28日 (木)

新潟ブルース

 ♪ 思い出の夜はァー 霧が深かァーたァー ♪ 
  ♪ 今日も霧が降るゥー 万代橋よォー ♪

 昨日、車に乗っていたら久々にラジオから流れてきた。 
ご存知 美川憲一の名曲「新潟ブルース」である。しかし、大阪には新潟出身者が少なく、この曲もあまり馴染みがない。ラジオでリクエストが入ること自体も珍しい。

 東京で勤めていた頃、たまに新潟に出張することがあった。今でこそ上越新幹線で2時間弱だが、当時はまだ在来線の特急しかなかったので、帰りはよく夜行寝台を使った。仕事が終われば、夜行寝台の時間まで、新潟の知人と盛り場に出る。北陸の中心都市とはいえ、東京の賑やかさに慣れた目から見ると、やはりどこか寂しい。スナックに行くと、ご当地ソングの新潟ブルースばかりで、この響きがまたうらびれて物悲しい。

 いつ頃だったか忘れたが、知人が翌朝が早いのでと、先に帰ってしまったことがある。スナックのカウンターにボク一人が残された。他の客たちも引き上げてしまい、店のママと二人だけになった。まだ、夜行寝台の時間まで1時間近くあった。「最近お客が減っているのに、これで新幹線が開通したら東京からの出張客も日帰りになってしまうワ」 というママの愚痴話にしばらく付き合わされていた。

 「あっ もう時間だ」と気がついて、カウンターから立ち上がった。飲み残したグラスを片付けようと背を向けたママが、ボソッと一言。「泊まっていけばいいのに・・・」。薄暗い店内、彼女の白い項(うなじ)だけがぼんやりと浮き上っていた。背筋がゾクッとして、慌てて店を飛び出した。駅に急ぐ道すがら、どこかの店から新潟ブルースが聞こえてくる。

 それから数年後、たまたまその店の前を通ったら、更地(さらち)になっていてペンペン草が生えていた。あのときは、越後の雌ギツネに騙されたのだろうか。そういえば、お尻からシッポが生えていたような・・・  それ以来、この曲を聴くと、いつもキツネを思い出す。

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2005年7月12日 (火)

豊かさとは

 ”豊かさ”っていったい何だろう・・・

 昭和30年代半ばのことである。実家近くの葦簾張り(よしずばり)の駄菓子屋で、1杯20円くらいで売っていたカキ氷を時々買ってもらうのが楽しみだった。子供相手の店だから、カキ氷の入れ物もソフトクリームのコーンみたいに食べてしまえる器。だから、グズグズしていると、底が破れて中身が洩れてくる。食べるのにもちょっとしたコツが必要だった。亡くなった祖父が時々買ってくれたのだが、子供心に、大きくなったらそのカキ氷をいつでもお腹いっぱい食べられるような身分の大人になりたいと思っていた。

 当時は、夜になると車の往来も少なくなり、風呂あがりに表に床几(しょうぎ)を出して、麦茶やラムネを飲みながら、近所の子供と戦争将棋をさしていた。シャリシャリする冷たい蚊帳の感触のなかで、祖母に絵本を読んでもらいながら、だんだんウトウトしてきて記憶が遠のいていく・・・・

 昨日街を歩いていたら、喫茶店に「氷」と大書した懐かしい旗が揺らめいているのが目に入った。ふと、遠い子供の頃の記憶が蘇る。あれから40数年。おかげで、ボクもカキ氷くらいは財布を気にしないで食べられる身分になった。日本もボクたちの暮らしも、当時に比べて飛躍的に豊かになった。しかし、物質的に恵まれているということだけで、あの頃よりも幸せになったといえるのだろうか。 

 ボクが物心がついた頃は、まだ日本は戦後復興の途上だった。近所の「テレビ食堂」という大きな看板の店に入り浸って、いつもテレビを見せてもらっていた。家に初めてテレビが来た日のことも、ハッキリ覚えている。当時は、祖父祖母や兄弟を含めて大家族だったから、チャンネル争いも熾烈だった。しかし、そんな中で人間同士の触れ合いがあり、そうした個性のぶつかり合いの中で、子供の人格が形成されていった。

 翻って現代。核家族化した豊かな時代に大切に育てられた今の子供たちには、初めから個室が与えられている。家の中での会話も少なく、一人っ子だと兄弟げんかもしようがない。社会性に乏しくなるのは当然のことだろう。しかし、せめて物のありがたさや人に対する感謝の気持ちくらいは感じられる人間に育ってほしい。それは、学校ではなく家庭の責任である。

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2005年7月10日 (日)

朝顔のツル

 最近、朝顔のツルが急に伸びだした。

 草木はみんなそうだが、いくら手をかけても大きくならない時期と、放っておいても一気に伸びる時期がある。以前に花屋で聞いた話だと、パンジーは、寒い時期は上に伸びずに下に根を張るらしい。そうして、暖かくなるまで地面の下で力を蓄えておいて、春になると一斉に開花する。だから、寒い間は成長の速度が遅くても心配いらない、むしろそんな時期に無理して咲かせないほうがいいという。内面が成長している時期は、何もせずに放っておくのが一番。回りが急がせてダメにする場合もある。

 同じ生き物である人間もそうだろうか。今の時代はすべてのテンポがあまりに速くて、いい大人でも翻弄されそうになることがある。若者はどうだろう。人生の一時期、周囲から隔絶されて浮世離れした環境の下で、ジックリと本を読んだり、思索に耽ったり、仲間と机上の書生論を交わしたりする時間があってもいいのではないか。そんなときは、気長に見守ってやるのがいい。本人にしても、その経験は決して無駄にはならず、その後の長い人生の中で、必ずや有用な肥やしになるだろう。

 今から30年前、ボクは、学生時代を京都で過ごした。あの頃は、まだ長閑(のどか)な時代だった。大学の回りには、古い下宿屋があり、雀荘があり、学生食堂、ジャズ喫茶、銭湯があり、そこには名物親父や看板娘がいた。

 ちょうど時あたかもマクロ経済では、戦後の日本の高度成長を支えた重厚長大型の産業が踊り場にさしかかり、美感遊創、ソフト中心の産業構造への転換期だった。しかし、学生であったボクらはそんなことを知る由もない。 大学の中は、京都という土地柄ともあいまって、まだ、時間もゆったりと流れていたように思う。 いい時代に学生生活を送らせてもらったと神様に感謝している。

 たっぷりと力を蓄えて、その後、朝顔のツルのように伸びたかどうかは自信がないけれど・・・

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