2008年12月29日 (月)

ジュリー

 昨夜テレビをつけたら、たまたま沢田研二の還暦コンサートを放送していた。

 12月3日に東京ドームで行われたコンサートの一部で、ダイジェスト版といってもたっぷり90分、充分に堪能できる。コンサート会場で最初から最後まで全部見たら、何と6時間40分だそうだ。しかも、ひとりで80曲を歌い切ったというからスゴイ。

 往年に比べるとたしかに太った。小皺も増えて、首のあたりはたるんでいる。でも、声はよく出ていて、運動量も半端ではない。世間の一般的な60歳に比べたら、はるかに若い。

 よく見ていると、若い頃とは微妙に歌い方が変わっていることに気づく。華やかな過去に埋没せずに、この年になってもまだ年齢に応じて進化しているのだ。

 彼はデビュー以来、並外れたルックスと大胆なコスチュームで若者、とくに女性ファンを魅了してきた。しかし、ひょっとしたら見た目だけで評価されることに満足できなかった人かもしれない。

 レコードの売上げが落ちてきた後も、固定ファンを相手にディナーショーで地方回りしたらソコソコ稼げたはずなのに、ジュリーは「毎年アルバムを出して、コンサートツアーを続ける」ことにこだわった。歌手としての軸をしっかり見てほしいということなのだろう。

 もちろん、見た目は悪いよりもいいほうが得だ。しかし、ルックスだけに目がいくことで、本人が勝負したい本筋がボヤけてしまうことがある。医者でも弁護士でもスポーツ選手でも、そんな人がいる。

 世の中には贅沢な悩みがあるものだと、ジュリーの還暦姿を見ながら、奇妙なことを考えていた。

 ちなみに同い年は、チャールズ皇太子、舛添要一、糸井重里、内舘牧子、井上陽水、江夏豊、泉谷しげる、山本益博、都はるみ、月亭八方 など…

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2008年12月26日 (金)

駐車場にて

 もう運転免許をとって30年以上になる。

 はじめのうちはペーパードライバーだったが、少なくともここ10年以上は、ほとんど毎日のようにハンドルを握っている。

 それなのに、さほど運転は上手くならない。とくに駐車場でのバックが苦手。それでも、両隣に先客が停まっていてその間に納めるというのは何てことはない。不思議とダメなのは、だだっ広いホームセンターの青空駐車場なんかで、車輪止めもなく殺風景な白線だけ引いてあるところ。

 ガラガラでどこでもご自由にどうぞ、というのはカラッきし下手くそ。まずはどこに入れるかで迷う。そして迷った末に、中途半端な入れ方をする。だからクルマを降りると、たいてい白線を踏んでいる。もう一度エンジンをかけて入れ直すほどのこともないと思って、駐車場から離れる。ところがあとでクルマに戻ると、いつの間にか周りが混んできていて大迷惑、なんてことも少なくない。

 多すぎる的に、惑わされてはならない。自分の狙いをキッチリ定めるべし。これって人生の奥義かもしれない。

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2008年12月12日 (金)

名前の話

 ベネッセコーポレーションが今年生まれた赤ちゃんの名付けランキングを発表しているが、上位には凡人には思いつかないような個性的な名前が並んでいる。

 男の子の1位は「大翔(ひろと)」、2位が「蓮(れん)」、3位が「悠斗(ゆうと)」。女の子は「葵(あおい)」が1位。「結衣(ゆい)」が2位。「陽菜(ひな)」が3位。

 使われている漢字も読み方もなかなかのものだ。

 ちなみにそれぞれのベスト100位までに、男の子なら「男」「雄」「夫」のついた名前などひとつもない。女の子にしても「子」がつくのは「莉子」「桃子」「璃子」の3つだけ。

 いったい誰が考えるのだろう。近ごろの若者は漢字を知らないと言われるが、このバリュエーションの豊かさを見ていると、けっして捨てたものではない。

 名前とは、個を他者と識別するためのもの。商品名でも自治体名でも相撲の四股名でも、書きやすくて読みやすいものが親しみが持てていい。あまり凝りすぎて、いちいち読み方を尋ねないとならないような難しい名前はやめたほうがいい。

 つい先日、今年の紅白歌合戦の出場歌手が発表された。

 自分が興味がないせいか、Aqua Timez、EXILE、キマグレン、羞恥心、WaT、いきものがかり…と並んでいる名前を眺めていても、姿かたちが浮かばないし、男女の別さえ分からない。

 それにひきかえ、昔の名前は単純だった。麻生首相の名は太郎で、民主党小沢代表は一郎。こんな名前、今どきどこにも見当たらない。

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2008年12月 9日 (火)

1年先

 1年先の今ごろは、いったいどんな世の中になっているだろうか。

 この時期になると、さまざまの専門家が来年を予想する。でも、あまり当たったタメシがない。

 1年前の今ごろはというと、消えた年金問題で福田内閣の支持率が下降線をたどり始めた頃。でも、その1年後に首相が代わっているとは思いもしなかった。その新しい顔も、どうやら長続きしそうにない。

 株価がここまで下がると予想した人も皆無である。年始の財界人アンケートを見ると、11~12月に株価がピークを迎えると考えていた人が多く、最頻値は17,000~21,000円というからその乖離に驚く。

 プロ野球の世界でも、巨人と西武の日本シリーズを予想した評論家は誰ひとりいない。ましてや西武の日本一なんて、想像もつかなかった。

 いつも台風の進路予想図を見ていて、進路予想はきれいな直線か曲線を描いているのに、実際の進路はガタガタだということに気づく。過去・現在・未来というけれど、つながっているのは過去と現在だけで、未来というのはその延長線上にはないのかもしれない。

 スウェーデンのある学者が、将来社会の予測方法として『バックキャスティング』という考え方を提唱している。

 従来のフォアキャスティングが過去からのデータを引き伸ばして将来を予測するのに対して、バックキャスティングというのは最初にあるべき未来像を決めて、そこに行きつくためにはどうしたらいいかというアプローチを探る手法。

 ウン!これかな…それじゃ~とびきりの理想像でも描くとしましょうか。

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2008年11月23日 (日)

インディアンの格言

 今日は3連休の中日。

 いつものように、5時半過ぎに目が覚めた。

 新聞を取りに表に出たら、まだ外は真っ暗。街は寝静まっている。冷え切ったリビングに暖房を入れて、カーテンを開ける。しばらくすると東の空が白み始め、薄い雲の間から弱い晩秋の朝日が姿を現す。

 今日は勤労感謝の日だというのに、あいにく仕事の約束がある。ふだんと同じ時間に家を出て、駅に向かう。さすがに電車も閑散としていて、スーツ姿もまばらだ。車窓から近景を眺めると、あちこちで銀杏が色づいている。嵯峨野や大原あたりでは、紅葉真っ盛りだろう。

 事務所で書類の点検をすませて、9時すぎにクルマに乗り込む。市内のオフィス街は交通量も少なくて、平日のように前後左右に気を使うこともない。秋色に染まった大阪城に目をやりながら、一路南へと向かう。

 ラジオをつけたら、日曜日とあって聞きなれないキャスターの声。いきなりインディアンの格言とやらが耳に飛び込んできた。

 「あなたが生まれたとき周りの人は笑って、あなたが泣いたでしょう。だから、あなたが死ぬときはあなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい。」

 いつも前を向いて死にたいとは思っていたが、笑って死にたいか… なかなかうまいことを言う。心しておこう。 

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2008年11月 4日 (火)

年齢

 自分から見た自分自身というのは、年をとってもそんなに変わるものではない。

 人は生まれてから死ぬまで、切れ目のないひとつのレールを上を走り続ける。そして、そのレールには年齢が刻まれている。成長や老化は少しずつ進んでいくものなのだが、第三者からはその瞬間を輪切りにした年齢で判断されることが多い。

 人生の折り返し点をとうに過ぎてしまった。50歳になったとき、書類に年齢を書き込んだ印象が、これまでの40代とはずいぶん違うものだと気づいた。独身生活を謳歌して30代に突入したときは、大台(おおだい)感覚があった。大きな人生の決断をした40歳のときは、不惑という言葉がちらついた。そして50歳になったときに感じたのは、これからゆっくりと人生の坂道を下っていく覚悟のようなものだった。

 その50代も半ばに近づいた。

 サラリーマンなら、もう定年が目の前に迫っている。老後の人生設計などを考えている人も多いだろう。

 これまで年相応の経験は積んできているつもりだ。それなりの社会的立場や世俗的評価も身にまとっている。しかし、だからといって、あまりそれに束縛されるような生き方はしたくない。物分かりのいい好々爺にはなりたくないのだ。

 テレビでよく『懐かしのメロディー』なんていう番組が流れている。誰とはいわないが、一発屋の歌手が出てくる。何十年か前に一つだけヒット曲があって、それで紅白に出て、その後ずっとその看板を背負って地方回りをしている。そんな昔の遺産で食べている顔を、カメラが容赦なく大写しにしてあぶり出す。

 ボクの性に合わない生き方で、思わず視線をそらしてしまう。それに比べたら、小柳ルミ子、松田聖子… 好き嫌いは別にして、過去の名声に安住しない挑戦的な生き方は素敵である。

 2008110200000014maipgolfview000ちょっと話は変わる。一昨日あの石川遼クンが初優勝したが、2打差で迎えた最終18番が圧巻だった。1打目を左に曲げ、エッジまで残り170ヤードの2打目は急なつま先下がりのライ。無理して2オンを狙わなくても勝てる場面だ。ここは刻むのがセオリーなのに、彼は7Iを手にして迷わずグリーンを攻める。思わず身の毛がよだった。結果は池ポチャだったが、見事なリカバリーで優勝を手にした。

 彼のトライは若さゆえかもしれない。でも年をとっても、そんな冒険をしてみたい。自分の一度しかない人生。果敢に悔いのないように生きたいと思う。若者に爽やかな勇気を与えてもらった。 

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2008年10月28日 (火)

『生ましめんかな』

 人生にもしもはないけれど、もし自分が医者になっていたら、小児科か産婦人科を選んでいたと思う。

 それも緊急医療に携わりたい。年端もいかない高校生の頃、漠然とそんなことを考えていた。産科や新生児病棟の現場が常に臨戦態勢の修羅場であることは知っている。でも医者になる以上は、微力を尽くして新しい生命の誕生を支えたい。家族が喜ぶ顔が見たい。そして小さな命の成長を見届けたい。

 青臭いといわれそうだが、40年ほど前は真面目にそんなことを考えていた。

 先ごろ、東京都内で脳内出血を起こした妊婦が8つの病院に受け入れを断られて、出産後に死亡した。こういった妊婦のたらい回しが今、全国各地で起きている。日本の医師不足は深刻で、産科の救急医療は崩壊の危機にあるそうだ。

 こういう話を聞いて思い出すのは、自らの被爆体験をもとにした『生ましめんかな』(栗原貞子作)という詩である。

 広島に原爆が投下された直後、多くの負傷者たちが地獄のような地下室に逃げ込んだ。ローソク1本ない死の闇の中で、ひとりの女性が突然産気づく。居合わせた人々は自分の痛みも忘れて、この女性を気づかうものの、どうすることもできない。そのとき、さっきまでうめいていた重傷者が声を上げた。

 「私は産婆です。私が生ませましょう」

 そしてその妊婦は無事に出産し、赤ん坊を取りあげた血まみれの産婆は夜明けを待たずに亡くなる。

   「かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
  かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
  生ましめんかな 
  生ましめんかな 
  己(おの)が命捨つとも」

 たらい回しの原因は、たしかに医師不足かもしれない。しかし、たとえベッドがふさがっていても、医療スタッフが足りなくても、目の前で苦しむ妊婦の受け入れを拒否することが医師として許されようか。一刻一秒を争うなかで「私が産科医です。私が生ませましょう」という声が、どうして発せられなかったのか。

 被爆直後の極限状態にあってさえ、傷ついた人々は懸命に妊婦を助けようとした。ところが、かくも医療技術が進歩した平和な時代にありながら、どこの病院も冷淡に妊婦を突き放したのである。

 「生ましめんかな、生ましめんかな」。どこからか、そんな声が聞こえる。

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2008年10月16日 (木)

器量

 器量といっても、人間の器(うつわ)の話。

 人間にはそれぞれ、もって生まれた器量というものがある。これは残念ながら生来のもので、いくら凡人が努力しても身につくものではない。若くても魅力にあふれる青年がいるいっぽうで、いたずらに年だけ重ねた老人もいる。

 この年になって思うのは、人は自分が思うほど成長しないということ。これは同窓会にでも行けば一目瞭然。もちろん年相応にみんな丸くなってはいるが、子供の頃の欠点がいっそう歪曲されていたりもする。

 器は、生を享けたときに天から賦与されるもの。会社でいえば、課長には課長の器が、部長には部長の器というのがある。そして役員にも社長にも、それぞれの地位に見合った器がある。よく「あの人は部長止まりだ」なんて陰口をいうが、それはその人物の器を的確に見抜いた言葉でもある。

 トップに必要なのは何よりもカリスマ性。この人のためなら多少の苦労は厭わない。そう思わせるような人が上に座ると、その組織は結束して120%どころか150%の力が出せる。

 来春のWBC監督人事が難渋している。第1回目のときに、あのイチローをして「王さんに恥をかかせられない」と言わしめたような人物が現れるだろうか。大切なのは、選考過程をも含めた納得性である。

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2008年9月25日 (木)

男の辞め方

 ついに王監督がユニホームを脱いだ。

 2008092500000000jijpspoview000昨夜の最終戦の後、グランドからスタンドの観衆に深々と頭を下げた。そして選手たちの手で宙に舞う。松中が、小久保が、人目をはばからずに号泣している。城島がいたら、彼も泣いていたに違いない。

 もう限界だろう。心から「お疲れ様!」と言いたい。今年のホークスは不本意な成績に終わり、残念ながら有終の美は飾れなかった。でも、もう充分だ。

 胴上げを見ていて、目頭が熱くなった。男の美しい辞め方はかくあるべし。

 14年前に、請われてホークスの指揮をとることになった。当時はまだ巨人の一極集中時代。すでに巨人のユニフォームを脱いで数年たってはいたが、過去のネームバリューだけで安逸なその後の人生が保証されていたはずだ。それなのに敢えて火中の栗を拾う決断をした。侠気のある人なのだ。

 思った通り、福岡では苦難の道が待ち受けていた。結果を出せず、辞任を求めて容赦ない野次が飛ぶ。いつだったか、心ないファンから生卵が飛んできたこともあった。過去の栄光を大切にするなら、そのあたりで潔く身を引くという選択肢もあったはずだ。

 でも、彼は投げ出さなかった。とくに胃の全摘手術後、痩せ衰えてグランドに復帰した姿には鬼気迫るものがあった。

 身を削り、気力の限りを尽くした。ここまでやればもういい。誰も文句は言わない。あとは後進に任せて、ゆっくりと自らの身体を労わってほしい。

 最近の相次ぐ不祥事による辞任会見と比べると、そんな辞め方が何と神々しく輝いて見えることか。

 たまたま同じ日に、同じ68歳の麻生首相が日本の監督に就任した。こちらも厳しい船出となる。彼がいつどんな辞め方をするのかは想像がつかないが、王監督のように国民から「ご苦労様!」という言葉をかけてもらえるだろうか。くれぐれも前任者たちのように、途中で投げ出さないことを祈る。

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2008年9月21日 (日)

クラス会

 高校のクラス会に出席。

 学年会は4年に一度あるが、クラスで集まるのは久しぶり。5月にたまたま同窓生4人で食事をしたときに、次回はクラス全体に声をかけようということになって実現したもの。

 45人中13人が集まった。このご時世、メルアドさえ分かれば連絡は簡単で、あまり物理的な距離感はない。日本中に散らばっている同級生にメールを送ったら、東京から3人、富山から1人がわざわざ参加してくれた。

 職業はさまざま。文系クラスだったのに、なぜだか医者も薬剤師もいる。当日は大学教授から弁護士、公認会計士、会社経営者などそうそうたる顔ぶれがそろったが、他愛もない思い出話に時計の針が一気に戻る。さすがに体形や肌つやは歳月を隠せないが、目の輝きや表情は往時のまま。

 もうこの年になると、だいたい人生の方向も定まって、子育ても一段落している。話題は子供の就職やら親の介護やら、みんな年相応の人生を送っているとみえる。

 昼の12時から始まった宴会だが、日が暮れても話は尽きず。結局は河岸を代えて3次会まで。帰宅したらもう10時前だった。

 静岡で旅館の女将をしている同級生がいるらしい。来年はそこでという話で盛り上がったが、さてどうなることやら。

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2008年8月29日 (金)

塾 雑感

 小5の次女が学習塾に通っている。

 関西では名の通った、実績のある進学塾である。

 長女も同じ塾でお世話になった。もう二人目だから驚きはしないが、長女のときはここまでやるかと正直びっくりした。大人でも難しいテキストを、週4回ミッチリやらされる。帰宅は夜の10時前。我が家は近いからまだいいが、遠い子は1時間近くかけて通っている。宿題もあるから、睡眠時間はおのずと短くなる。

 こうやって難関中学に入って、名門大学に入り、将来は博士か大臣か。

 しかし、これが人間の幸せなのだろうか。

 たまにクルマで迎えに行くと、子供たちがゾロゾロと塾から出てくる。みんなモヤシのように色白でか細い。牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけて、いっせいにケータイで親と連絡している。「今日のテスト○点だったよ!」 弾んだ声が聞こえる。

 これでいいのだろうか。

 わが子をその渦中に置きながら、こんなことを言うのも憚られるが、ボクは昨今のこうした受験システムに大きな疑問を持っている。でも、しょせんは蟷螂の斧。大きな流れには抗しがたい。

 この子供たちが、自分の明確な意思で塾や受験を選んでいるのならいい。しかしもし親に押しつけられて、不本意ながらこうした生活を続けているとしたら、それは大きな不幸でしかない。

 これから先は、今以上に学歴社会は崩壊するだろう。一流大学を出たからといって、医者や弁護士になったからといって、豊かな生活や確固たる社会的地位が保証されているわけではない。また、人生の目的や幸せというのは人それぞれ。そしてそれは、結局は自分自身で見つけ出していくしかない。

 今の子供は早熟だが、さすがに小学生にはまだ自分の明確な将来像を描く力はない。

 自分を振り返れば、小学生の頃は遊ぶのに忙しかったし、イタズラをして近所の頑固親父にも再々怒鳴られた。その合間にヤマほど本を読んだ。魚釣りや昆虫採集は男の子の必須科目だし、幼少期の必読書というのもある。そうした経験はその年代でしかできないことで、必ずや将来の血となり肉となる。そしてこれをサボると、あとでえらいシッペ返しがくるというのがボクの持論である。

 自分の将来を賭した真剣勝負は、18歳の春でいい。そしてそのためにせめて1年間くらいは、死ぬほど勉強することを奨める。でもそれまでは、しっかりと心に栄養を蓄えてほしい。塾通いの小学生の華奢な背中を見ながら、かつての自由が子供たちに許されない世の中になってしまったのかと悲しく思う。

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2008年8月24日 (日)

キライなもの

 クールビズ、歯医者の診察台、長電話、税務調査、フライドポテトと発泡酒、ねずみ花火、ゴミを漁るカラス、マニキュアを塗った長い爪。

 教養のための読書、健康のための運動、職場の不満ばかり言うくせに会社を辞めないサラリーマン、夫の悪口ばかり言うくせに離婚しない主婦。

 臭いおしぼりと欠けたコーヒーカップ、ジェットコースターと飛行機、くどい説教と下手な言い訳、冷凍の枝豆とインスタント味噌汁、果てしなく続く音声案内と途中で終わる野球中継、すっぴんと厚化粧、救急車のサイレンと街宣車の演説、衣だらけのエビフライと具のない茶碗蒸し。

 世の中カネがすべてだと信じている成り金経営者、失敗を重ねて心までねじ曲がった不満分子。独立したとたんに似合わない衣装に身を包む元NHKアナウンサー、客の前で職人を叱り飛ばす老舗の店主。

 キッズ向け英会話教室、注文の順番を間違うラーメン屋、デパートのバーゲン会場、客のタバコを注意しない寿司屋。

 留守番電話、太りすぎたハムスター、コンビニ(ファミレス)言葉、車道を走るママチャリ、生温(ぬる)いビール、甘ったるい缶コーヒー、回転寿司の甘いガリ、湯に溶かすお茶の粉。

 あいさつのできない子供、夢を語れない若者、約束が守れない大人、過去ばかり振り返る老人。

 意気地のない男に愛嬌のない女、国会で居眠りする政治家、窓口であくびしている役人。ペテン師と嘘つき、そんな小悪党にコロっと騙される平和ボケした小市民。

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2008年7月13日 (日)

偲ぶ会

 昨日、4月に亡くなった『Sさんを偲ぶ会』に出席してきた。

 昔の同僚や仲間など50数人が集まり、夫人を囲んで賑やかな会となった。仙台や岡山からなど遠来の参加者もあり、自分としても長らくご無沙汰している人たちと久々に旧交を温めることができた。

 席を移動しながら注しつ注されつ、昔話に花が咲く。そして宴が盛り上がった頃合いを見計らって、いよいよメーンイベント。

 あらかじめ幹事が集めておいた懐かしい写真をスライドにして、次々と前方スクリーンに映し出す。『総務課時代』『新ビルチーム』…テーマごとに、ゆかりの深い人が前に出てきて交替でその思い出を語る。

 だいぶアルコールが入った客席からは、
 「誰?あの人…あんなに若かったの?」
 と笑いの渦が広がる。
 「この写真はいったいどこ?」
 画面に見入りながら、懐かしさに声が弾ける。天国から故人がみんなをつないでいる。

 こういう趣向の会は初めてだが、なかなかいいものだと思った。

 タイミングも絶妙。3ヶ月も経てば悲しみも少しは癒えて、落ち着いて思い出話ができる。共通の知人が集まって故人を偲ぶには、ほどよい頃合い。

 2時から5時。昼間の酒がよく効いた。二次会も準備されていたが、翌日の予定があったので、後ろ髪を引かれる思いで会場の赤坂を後にした。

 帰りの新幹線で、Sさんの人徳の大きさを思う。64歳。短かったけれど、大きな軌跡を残した人生だった。

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2008年5月30日 (金)

集団愚行

 たまには、独りになるのもいいものだ。

 知らない街の路地裏をあてもなく歩いてみたり、波止場で船を眺めたり、誰もいない美術館の喫茶室でコーヒーを飲んだりするのもいい。開店直後の静かなカウンターで一杯飲(や)って、さっと引き上げるのも悪くない。頭の中が真っ白になってリフレッシュできるし、平素とは違った環境で新しい発想が湧いてくることもある。

 人間という生き物は、数多くの他人との関わりの中で日々の営みを続けている。たまにはその浮世の鎖を解きほぐして、五体を緩めてやるのがいい。満員電車で擦れ合って色あせた珠玉も、ひとつずつ外して丁寧に磨けば、また輝きを取り戻すものだ。

 いつも独りだと寂しいが、たまには独りも悪くない。動物、特に人間は集団で行動する場合、単独行動のときに比べて確実に判断力や注意力が低下する。万事が他人任せになって、全体責任は誰の責任でもなくなってしまう。

 職場で団体旅行でもすればよく分かる。幹事以外はただついていくだけで、集団でカプセルに入ったまま動いている。仲間との雑談に夢中になって、どこに行ったのか、何を食べたのかさえ覚えていないことも珍しくない。

 己の技や力を試すには、独りで他流試合に臨むのがいちばん。ボクは高校時代に山岳部にいたが、登山の世界では単独行ができるようになれば一人前といわれる。自分の体力や技量からコースや日程を決めて、天候や疲労具合を考えて、休憩、炊事、野営などを判断していく。それがグループだとリーダー任せになって、ひどいのになると地図さえ読まない。

 心理学に集団愚行という言葉があるが、自分も含めて人間は集団に安住するときがいちばん愚かだ。「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」というのは本質をうまく言い当てている。

 いくら親しい人でも、いつも一緒にいると息が詰まってしまう。たまには独りになって、自分をリセットすることも大切。人生とはそんなくり返しである。

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2008年5月17日 (土)

男の背中

 昨夜、会合の後、10人ほどで近くのスナックに流れた。

 少し年上の知人が常連の店。その彼が他のメンバーから離れてひとりでカウンターで飲んでいる。ほどなく若い男性が来て並んで座った。他の人に聞いたら、彼の息子だという。

 ちょっと家庭環境が複雑で、先妻との子供らしい。

 豪放磊落な人だが、男手ひとつで2人の男の子を育てたという話を聞いたことがある。毎朝早起きして、子供たちの弁当を作っていたとか。朝はいつも具沢山の味噌汁だったと、照れくさそうに言い訳していたのを思い出した。

 メンバーのカラオケを聴きながら、それとなくカウンター席に目をやる。適当な距離を取りながら、分厚い背中と華奢な背中が並んでいる。ときどき厚い方の胸板が揺れるのは、酔っているからかもしれない。

 母親がいなかった分だけ、ふつうの親父と息子以上の固い絆で結ばれていたはずだ。再婚するときに、2人の息子たちにどう説明したのだろう。そして彼らは、どう反応したのだろう。

 それから幾星霜。その親子がカウンターに並んで酒を酌み交わしている。でも多くは語らない。おそらく語らずとも分かるのだろう。長い時間のヒダの中に、すべての感情は解けて消えていく。

 ウチには息子はいないけど、こんな男同士もいいものだ。ちょっとうらやましい。

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2008年4月19日 (土)

アンチエイジング

 先日のSさんの通夜の席で、思いがけず懐かしい昔の同僚や先輩、取引先の人たちと会った。

 Sさんが引き合わせてくれたというしかない。

 会社を辞めてもう13年になる。退職時に挨拶回りをしたとき、ボクは一部の親しい人たちを除いて「もうこの人たちには二度と会うことがないだろう」と感じていた。東京を離れるし、これからは仕事でも縁がない。よほどのことがない限り、もう接点もないだろう。そう思いながら、ひとりひとりの顔をまぶたに焼きつけていた。

 ところが、その人たちと思いがけず再会を果たすことになった。顔かたちや体型の変化に十数年の歳月の重みを感じるが、間違いなく本人の話し方であり仕種である。たぶん、向こうも同じことを思っていることだろう。

 言うなれば浦島太郎。いつかどこかでこんな経験をしたような気がしたが、どうしても思い出せない。それが帰りの中央線で映画の広告が目に入って、ふと気がついた。

  そうだ。映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」。作品中に30年前の回想シーンと今の映像とが交互に流れる場面がある。その俳優たちの老けぶりが見事だった。もちろん同じ人が演じているのだが、髪型やら小ジワやたるみ(特殊メイク?)で巧みに加齢を演出している。

 亡くなったSさんは、もうこれで年をとらない。生きているボクたちはこれからどんどん老けていって、やがてはSさんの年を追い抜いてしまうかもしれない。いつかあの世で再会するときに、あんまりみっともない老け姿で誰だか分からないようでも困る。そのために、しっかりアンチエイジングに励まなければ…

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2008年4月10日 (木)

不惑

 金本が、2千本安打を前にして足踏みしている。

 スタートからの絶好調がウソのように、バットから快音が消えた。これだけマスコミやファンに騒がれると、プレッシャーも相当のものだろう。そっとしておいてあげたらと思うが、人気稼業はつらい。

 その金本が40歳になった。引退を表明した桑田、晴れてメジャーに復帰した野茂も同い年。そのせいか最近はスポーツ紙でも、不惑という文字をよく見かける。

 「四十にして惑わず」とは論語の言葉で、孔子の時代なら半ば老境に差しかかった年代。史記には「退きて詩書礼楽を修め、弟子いよいよ多く遠方より至り…」とある。

 スポーツ選手はともかく、今どきの40歳は現役バリバリ。13年前、ボクはその40歳で会社を辞めた。不惑にして大いに迷って、人生をリセットしたのだ。だからこの「四十にして惑わず」という言葉には格別の思いがある。

 今の世の中、人間を惑わす情報が氾濫している。そのなかで、自分に必要な情報だけを取捨選択できる能力を身につけることが大切だと思う。ビュッフェで片っ端から皿に載せて早々と満腹になるのではなく、自分の口に合う料理だけを選り分ける目を磨かねばならない。

 「不惑」という言葉を現代風に解釈すると、40歳くらいまでには明確な自分のモノサシを作れということ。いい年をして、いつまでも他人(ひと)の意見に右往左往しているようでは先が思いやられる。カブスに移籍した福留がコメントしていたように「どこに行っても自分のストライクゾーンは変わらない」というのは真理である。

 どうやら今日の甲子園のゲームは中止らしい。この雨で金本の迷いが吹っ切れるかどうか…

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2008年4月 9日 (水)

縁を生かす

 最近聞いた、ある少年と担任の先生の心温まる話。

 その先生が5年生の担任になったとき、服装が不潔でだらしなくて、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入してしまう。

 ある時、その少年の1年生からの記録が目に止まった。「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。何かの間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。

 2年生になると、
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。
 3年生では、
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」
 3年生の後半の記録には、
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」
 4年生になると、
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」とある。
先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみの中を生き抜いている生身の人間として、自分の前に立ち現れてきたのだ。

 先生にとって目を開かれた瞬間だった。放課後、先生は少年に声をかける。
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からないところは教えてあげるから」
 少年は初めて笑顔を見せた。それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。

 クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけて、夕暮れに少年の家を訪ねた。

 雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。「ああ、お母さんの匂い!きょうは素敵なクリスマスだ」

 6年生では、先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、先生に少年から1枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして、いままで出会った中でいちばん素晴らしい先生でした」

 それから6年。またカードが届いた。
「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができました」

 10年を経て、またカードが届いた。
 そこには先生と出会えたことへの感謝と、父親に叩かれた体験があるから患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。
「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままダメになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になったボクにとって最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です」

 そして1年。届いたカードは結婚式の招待状だった。
そしてそこには「母の席に座ってください」と、書き添えられていた。

 たった1年間の担任の先生との縁。その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠り所として、それからの人生を生きた。ここにこの少年の素晴らしさがある。

 人は誰でも無数の縁の中で生きている。無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。

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2008年3月17日 (月)

旅立ち

 同級生のお母さんが亡くなった。

 小学校時代の友達で、実家もすぐ近く。小さい頃からよく行き来していて、お昼をごちそうになったことも再々ならず。

 彼の家は金物屋。大店(おおだな)を構えて、田舎から集団就職してきたイガグリ頭の住み込み店員(近所では『○○さんところのボンさん』と呼ばれていた)がたくさんいた。なかには手先の器用な職人もいて、子供の模型など簡単に直してくれた。

 裏方では、お手伝いさんがいつもボンさんたちの食事を作っていた。子供心にも彼らの旺盛な食欲に驚いたものだ。当時は『番頭はんと丁稚どん』というテレビ番組があって、ボクの頭の中ではそのイメージと重なっている。

 うちの近所で最初にエアコンが入った家でもある。ルームクーラー・自家用車・カラーテレビを総称して”3C”。庶民の生活も急に豊かになり始めたが、まだまだ高嶺の花だった。

 さまざまな記憶を呼び起こしながら、今日の告別式に参列してきた。演出が素晴らしかった。色とりどりの花と多彩なスナップ写真で飾られた式場。写真の表情は豊かで、こぼれるような笑顔が印象的。

 長男であるボクの同級生が、祭壇に向かって『オーソレミヨ』を熱唱した。D大学のグリークラブで鍛え上げただけあって、声量は一級品。これまでいろいろな葬儀に出席したが、こんな演出は初めて見た。

 歌が大好きだったらしい。最後はコーラスクラブの合唱の中を粛々と送り出されていった。手を合わせて目を瞑っていたら、後ろでゴマ塩頭になったボンさんたちが涙を拭っていた。

 『別れ』ではなく『旅立ち』。いい言葉である。合掌

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2008年3月10日 (月)

温かい雨

 ふだんの生活の中では、自分の寿命を意識することなどあまりない。

 健康な人は、自分の命の大切さを分かっていない。しかし自分や身近な人が重い病気になると、命とか寿命とかいうものと真剣に向き合うことになる。

 ここ1年ほどはどういう巡り合わせか、まわりで健康を害した人が多く、見舞いに行くことが多かった。

 Tさんはある金融機関の支店長だった人。ご両親を看(み)とった後、定年を待たずに早期退職して、大和川の近くで大阪の伝統野菜作りをしていた。お子さんたちもそれぞれ独立して、昨春息子さん夫婦との2世帯住宅に建替えたばかり。還暦を迎えて、これから孫の世話でもしながら奥さんと優雅な晩年をおくるはずだった。

 ところが『好事魔多し』。Tさんを病魔が襲う。最近会うたびに痩せてきたのが気になっていたが、年末にすい臓ガンが見つかった。抗ガン剤治療を続けていて、病状は予断を許さない。

 つい最近ご本人と会ったが、不安などおくびにも出さない。心の中までは覗けないものの、診断書を見せながら笑顔を絶やさない。気丈な人だと感心した。

 もしも自分がガンの宣告を受けたらどうだろうか。目の前が真っ暗になって投げやりになるかもしれないし、絶望のあまり家族に当り散らすかもしれない。

 燃え尽きる最期の瞬間まで悔いのないように生きたい。たとえあと1年と言われても、前向きにその余命を楽しみたい。言うのはたやすいが、これを実行するのは容易ではない。

 生体腎移植を受けたOさん、脳出血でリハビリ中のTさん、心不全で入退院をくり返しているNさん… 何とか頑張ってほしい。

 今日は朝から温かい雨。もう春は近い。

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2008年2月 5日 (火)

バラのトゲ

 いつだったか、ある地方紙のコラムで読んだ話。

 モノの見方の喩え話として、バラをどう見るか。「美しいのにトゲがある」と否定的にとらえるのか、あるいは「トゲがあるのに美しい花をつける」と肯定的に見るのか。とかく人間は、他人(ひと)の悪いところばかりに目がいき、いいところは意識して探さないと見つけられない、という。

 どんな人にも、長所があるし短所もある。いいところを見習う。逆に悪いところは目をつぶって、自分自身の反面教師にする。そうすれば腹も立たないはず。

 でもこれは意識していても難しいことだ。太陽が旅人の外套を脱がした寓話のように、褒める・ねぎらう・感謝すると相手は変わる。

 いくつになっても、人間というのは誉められるとうれしい。今日もある人に、ちょっとしたことで感謝していただいた。そのときの笑顔がとても素敵だった。自分でも単純だとあきれるが、この人には出来る限りのことをしてあげたいと思った。その人はごく自然にそういう言い方ができる人なのだが、身に備わった人徳だと思う。

 若い頃、部下を気分よく働かせてくれる上司がいた。口は悪くても心は熱い。その人の命令なら、多少の無理も厭(いと)わないで頑張れる。自分には厳しく、他人には思いやりの心。これが人の上に立つための大切な資質だと思う。

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2008年1月17日 (木)

Bar.Sato

 事務所からほど遠くない静かな住宅街の中、こんなところにと思うような場所に1軒のバーがある。数年前にどこかの飲み会の流れで、誰かに誘われて行ったのがキッカケ。その後も何度か立ち寄った。

 キタやミナミの喧騒から離れて、ひとりでゆったりと時間を過ごすのにはちょうどいい。仕事で疲れたときなど、頭の中をクールダウンしながら、1、2杯でサッと席を立つのが大人の飲み方。

 いつだったかその店で数人で飲んでいたら、知人の女性がひとりで入ってきた。もう日付も変わろうとする時間である。スッピンで髪がナマ乾き。たしか自宅がこのあたりだった。子供もすでに独立していて、時間もお金も好きに使える自由人。風呂上りに一杯飲(や)りに来たのだろうか。こういうときは会釈だけで、お互い余計な言葉は無用。もちろん一緒に飲もうと誘う雰囲気でもない。

 そのときボクは、彼女がそういう場所と時間を持っていることををたまらなくうらやましく思った。家から歩いていける距離の心地よい空間。これは酒飲みの理想である。

 子供の頃、『だいこんの花』というドラマがあった。

 妻に先立たれた森繁久彌が主役で、息子役の竹脇無我との愛情や絆をテーマにした向田邦子の出世作。まわりを芸達者の脇役たちで固めて、笑いとペーソスにあふれた楽しいホームコメディだった。

 このなかで、亡くなった大坂志郎と加藤治子がやっている小料理屋が毎回出てくる。森繁はこの店の常連で、いつも遅くまでカウンターでとぐろを巻いている。そして最後は飲みつぶれて、店から家に電話がかかってくる。迎えに来るのは息子か息子の嫁。

 子供だったボクは、どうして大人はひとりで飲みに行くのかと不思議に思った。しかし、この年になるとその気持ちがよく分かる。仕事場と家庭との間には微妙な温度差があって、これを上手に橋渡ししてくれる場所や時間が必要なときがあるのだ。

 割烹というには敷居が高いが居酒屋ほど下卑ておらず、小料理屋という呼び名が相応しいこじんまりした店。ちょっと気の利いた肴と酒があれば充分。カウンターの向こうには、あまり饒舌でない店主がいて、一見客は少ない。ましてや団体客はお断り。欲を言えば、風呂上りに散歩がてらに行ける距離… 理想かな…

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2008年1月 8日 (火)

訃報

 昨夜、風呂からあがってメールを開いたら、友達の訃報が入っていた。

 高校・大学と同級生だったM。

 隣合わせの中学から同じ高校に入ったから、実家も近い。入学した高校1年で同じクラス。50音順の出席番号も並んでいて、話す機会も多かった。高校に入って1ヶ月も経たない頃、ボクが虫垂炎で入院したときに、彼は学校の帰りに見舞いに来てくれた。まだ髪が伸びきらないイガグリ頭の向こうに、窓の外には大阪城が見えていた。

 たまたま大学も学部も同じだった。そして最後に会ったのは、ボクが就職を決めた後。通い慣れた大学の生協食堂で、彼はいつものGパンと下駄履き姿だった。
「いろいろ考えたけど、就職することにしたよ…」
「そうか、オレはもう少し大学でゆっくりする。大学院でも行こうかと思ってる。」
「頑張れよ…」

 そんなやりとりだったと思う。その後はまったく音信不通。頭は良くて人柄もいい。でも鷹揚で利には疎い。およそ民間企業には向かないタイプで、研究職あたりがいいかもしれないと感じた。

 そのMの消息を知ったのは、つい3年ほど前のこと。たまたま昔の何人かの仲間の名前をインターネット検索していたら、引っかかってきた。

 愛媛大学法文学部教授…こんなところにいた。地方大学で教鞭をとりながら、好きな研究を続けていたのだ。松山という未知の土地が漠然と頭に浮かぶ。坊ちゃんと道後温泉くらいしか知らないが、きっと風光明媚で人の心も温かいのだろう。

 大阪から会いに行くには少し遠いが、いつか急に訪れて驚かせてやろう。美味い魚と地酒でたっぷりお互いの空白の人生を語ろう。また先の楽しみができた。そう思っていたら、気の早い彼は一足先にはるか彼方に旅立ってしまったのである。

 彼の残した業績も、教えた学生たちも、愛したご家族も、最期の様子も、ボクは何も知らない。ただ記憶にあるのはイガグリ頭と、自転車でキャンパスから飄然と消えていった後ろ姿だけ。

 オマエ!ちょっと早すぎるぞ!先に行って独りで飲んでろ!オレはもう少しゆっくりしていくから。。。

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2007年12月17日 (月)

逃げたらあかん

 もしイヌにガブっと手を噛まれたとしたら、その瞬間どうしたらいいか…

 ふつうの人は逃げようとして噛まれた手を引く。ところが引くと、肉食動物の歯は余計に獲物に深く食い込むようにできている。つまり傷口が深くなる。だからこういうときは、逆にノドの奥に向かって噛まれた手を突っ込む。そうするとイヌは驚いて口を開ける。そのスキに手を引くというのが正解。

 ボクも我が家のマロンの機嫌を損ねて、何度か噛まれたことがある。小型犬でも結構痛い。今度こそ試してやろうと思っているが、いつも反射的に手を引いてしまう。

 危機に直面したときにはただ逃げるというのはダメなのだ。状況を冷静に分析して、勝てそうにない相手であっても一発反撃を食らわしてから退散しても遅くはない。

 『島津奔る』(池宮彰一郎)を読んだ。

 21macgyas2l 朝鮮の役で『鬼石曼子』と恐れられた島津義弘は、関ヶ原の戦いでは西軍につく。勝敗はすでに決した。そのとき敵中深くで孤立していた島津軍の精鋭1500人は、敗走するかと思いきや、大胆にも数万の敵軍中央を突破するという離れ業を演じる。一時は家康の本陣に100mほどの距離に迫り、東軍をあわてさせたらしい。そして多くの将兵を犠牲にした激しい退却戦の末、義弘はかろうじて生きて薩摩に帰還する。

 敗散した西軍にあって、島津の勇名は一躍全国に轟く。義弘の根底にあったのは時の勝ち負けではなく、島津百年の計。こうして島津家は取り潰しの憂き目に遭うこともなく、江戸時代をしたたかに生き抜いて動乱の幕末を迎える。再起を期するつもりなら、負け方も大切なのだ。何やら今の政治の流れやら企業の存亡にも相通じるところがあるような。

 小心者の徳川家康、官僚主義者の石田三成、保身に走る兄・義久という思いきった人物設定も面白い。戦国武将の内面に鋭く迫る大作。正月休みにでもいかが。

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2007年12月15日 (土)

越冬つばめ

 昨日は久しぶりに車で出勤。

 通勤ラッシュを避けて6時過ぎに家を出る。これくらいの時間帯なら事務所まで40分ほど。途中で東の空が白み始めて、回りの車のライトがだんだん消えていく。渋滞が始まるともう大阪市内は近い。

 ふと、この時間帯を『彼は誰(かはたれ)どき』という古語があったことを思い出した。夕方のことを『誰そ彼(たそがれ)どき』というのと同じように、『彼は誰どき』とは人の姿が見分け難い夜明け頃のこと。

 その昔、深夜に恋人のところへ忍んでいった平安貴族たちは、早朝の別離のことを『後朝(きぬぎぬ)の別れ』と呼んだ。恋人たちが朝を迎えた時の切なさ、寂しさ、それと相反するかのような透明な朝靄からたち込めるみずみずしい空気。この言葉には何とも艶っぽい響きがある。

 信号待ちの間に、眠気覚ましの缶コーヒーをひと口含む。ラジオからは聴きなれたアナウンサーの声。背後から流れる次のリクエスト曲は、イントロだけで『越冬つばめ』と分かる。

 何度聴いても哀感のこもった歌詞が素晴らしく、森昌子の声によく合う。ボクの好みでいうと、演歌ならこの越冬つばめと『天城越え』が双璧。これを歌いこなせる女性はかなりの上級者だが、歌い方にも人生経験の深さがにじみ出る。

 一緒になって口ずさんでいたら後ろのトラックがクラクション。おっと、信号が変わっていた…

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2007年12月14日 (金)

年金

 消えた年金の名寄せ作業が難航しているらしい。

 Techoured社会保険庁は、未統合のまま宙に浮いた約5千万件の年金記録のうち、約2千万件の名寄せ作業が難航しているとの調査結果を公表した。結婚して姓が変わったり、事務処理ミスで氏名などの情報が誤って入力されていることが主因。名寄せには記録の補正作業が必要で、政府が約束していた今年度中の作業完了は難しいという。

 前々から気になっていたので、今日 自分の年金手帳を持って近くの社会保険事務所に行ってきた。

 ボクは23歳から40歳までは厚生年金。その後会社を辞めて大阪に戻ってからは国民年金。途中で仕事や住所が変わっているので年金番号が二重になっていないかどうか窓口の端末で調べてもらったら、ボクの基礎年金番号はちゃんと一元化されていた。やれやれその2千万件の中には入っていなかったらしい。

 ついでに年金の予想受給金額を計算してもらった。ボクの場合は61歳からの特別支給額が年間60万円ほどで、65歳からの老齢年金は現時点では約120万円。今後の加入期間で多少は増えるらしいが、それでも150万円前後だとか。

 だいたい予想はしていたものの、これで食べていくにはあまりにも寂しい老後。もうひと頑張りするか…

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2007年12月 3日 (月)

おごれる人たち

 長女が期末試験の勉強で『平家物語』を暗記している。

  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
  娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
  おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし
  たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ

 ボクが何とか言えるのはこのあたりまで。

 ところで最近はテレビをつけると、この「おごれる人」たちの謝罪会見ばかり…

 白い恋人、亀田兄弟、赤福、NOVA、船場吉兆、マクドナルド、そしてとどめは朝青龍…みんな老舗に胡坐をかいてきたり、自分の力を過信してきた人たちばかり。

 そう思って改めて平家物語の文章を読んでみると、実に人間の本質をうまく言い当てている。人の栄枯盛衰など予想できない。頂点を極めているときにこそ、いっそうの謙虚さが必要である。

 ふと、以前に勤めていた会社の社長の座右の銘を思い出した。
 「実るほど 頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな」

 これもなかなかいい文句である。

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2007年12月 2日 (日)

プラス思考

 コップに半分水が入っている。これを見て「まだ半分ある」と感じる人もいれば、「もう半分しかない」と思う人もいるだろう。楽観主義と悲観主義を比較する有名な話である。

 こんな話もある。靴メーカーの社員2人がアフリカの奥地で市場調査をした。いっぽうの報告は「現地人は素足で生活、将来有望な市場」。他方の社員は「現地人は素足で生活、事業の見込みなし」。靴を履いていないという同じ事実が、とらえ方によって全く正反対の結論になってしまう。

 1年ほど前に、ある中堅ディベロッパーの優秀な営業管理職が、シェアーが低迷している地方へ異動になった。てっきり左遷かと心配したが、未開拓地で頑張って成績を伸ばしているという噂を聞いた。そういえば最後に転任のあいさつに来たときに、双眸が輝いていたのを思い出した。彼は異動先のマーケットに無限の可能性を見たのだろう。

 人生の残り時間もプラス思考で考えたい。定年後の人生にしても、ポジティブに生きるかネガティブに生きるかで、生き様の濃淡が違う。晩年に実りの多い人生を楽しむには、プラス思考で生きるしかない。

 自分自身の人生観を確立すること。エラそうにいえば、これが50代の目標である。

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2007年11月23日 (金)

モーニングコーヒー

 今日は3連休の初日。

 早起きして試合に行く長女を羽衣(高石市)まで送ってきた。阪神高速堺線経由で片道1時間ほど。途中で夜が明けたが、風は冷たそうだ。

 事故渋滞に巻き込まれて、帰宅したのは9時過ぎ。妻と次女はちょうど出かけた後だった。

 とくに約束もないが、たまった仕事を片づけようと思って事務所に向かった。通勤電車に乗っていたら妻からメール。

 「今OBPのプロントにいるんだけど来ない?」
 「コーヒーおごってくれるなら行くよ(笑)…」
 「ハハハ…いいわよ」

 ということで、大阪城の見える特等席で200円のアメリカンコーヒーをご馳走になった。平日の喧騒がうそのようで、店は閑散としている。ガラス越しに陽光が差し込む店内は暖かいが、落ち葉の舞う舗道を行き交う人たちは首をすくめている。残ったコーヒーを一気に飲み干すとメガネが湯気で曇った。もう冬も近い。

 二人で20分ほどいただろうか。まわりを見回すと、散歩の帰りにモーニングセットを食べている夫婦連れが2組ほど。たいした会話を交わすわけでもないが、こうしたスローな時間も悪くない。

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2007年11月 7日 (水)

男たるもの・・・

 民主党のドタバタ劇を見ていて思うこと。

 いい男の条件とは、決断力と情熱と、もうひとつ言えば遊び心を持っていること。優しさとか頭の良さとか経済力とか外見とかつまらないことを気にする人がいるが、みんな違う。そんなものは決定的要素ではない。

 ボクがもし女なら、人生のここぞという正念場で果敢な決断ができる男に惚れる。決めるまでは大いに悩めばいい。他人の意見を参考にするのもいいが、最後は自分の判断。熟慮したうえでの断行。決めたからには退路を断って、信じた道をまっしぐらに突き進むだけ。

 それにつけても、今回の小沢代表の辞任表明はいったい何だったのか。ふと7年前の加藤の乱のぶざまな姿が重なる。いったん辞任を決めておきながら、説得されて翻意するとは何ごとか。見苦しくて男の風上にも置けない。

 辞めるならスパっと辞める。また辞めるという人間を、周囲も未練たらしく慰留などせずともいい。覆水はもう盆には帰らない。求心力を元に戻すのは並大抵のことではない。

 一連の行動は男の美学に反する。民主党は他に人材がいないのか。こんな体(てい)たらくでは、政権奪取も夢のまた夢である。

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2007年10月30日 (火)

江川と小林

 あの黄桜のコマーシャルには驚いた。

 かつては小島功のお色気マンガ。その後も黄桜の広告は、次々と艶っぽい女優を使って独自の世界を作ってきた。
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 それが何と今回は、江川と小林のドキュメント風CM。もう『空白の一日』事件なんて言っても若い人は知らないだろうが、あれ以来28年ぶりの対面だとか。

 相当この広告には力が入っているらしく、新聞などは1面の半分くらいを使っている。キャッチコピーは「時を結ぶ 人を結ぶ」と意味ありげ。広告の見出しには、
 「一生、話をすることはない、と思っていた。」
 「一度でいいから話をしたい、と思っていた。」
とある。

 この空白の一日というのは、巨人が浪人中の江川と野球協約のすき間を狙って入団契約をした事件のこと。社会的影響を重くみたセリーグはこれを無効としたため、巨人はドラフト会議をボイコット。そしてそのドラフトで江川を1位指名した阪神が、巨人の小林とトレードすることで衝撃的な決着をみた。江川は世間から非難され、同情を一身に集めた小林は移籍1年目で最多勝。とくに古巣・巨人に対しては8勝0敗という神がかり的な強さを発揮した。

 これ以来、江川にはダーティーなイメージがつきまとう。もうそんな忌まわしい事件は思い出したくもないが、これをちゃっかり出演料に変えているところがいかにも江川らしい。

 いっぽうの小林は今どうしているのだろう。早々と現役引退した後は、参議院選で落選したり自己破産したりと、あまり運にも恵まれていない様子。

 しかし、だからといってこんなCMに出ることもないだろう。
 二人の座る位置の微妙な距離感が、小林の迷いを象徴しているように見えてならない。大枚積まれても、ボクなら絶対出ない。

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2007年10月26日 (金)

小学校の同窓会

 昨夜帰宅したら、机の上に手紙が置いてあった。

 少し厚手の封筒に、きれいなペン文字で宛名書きがされている。裏返して差出人を見たら女性の名前。でもまったく心当たりがない。いったい誰だろうといぶかって封を切ったら、ひと月ほど前に行われた小学校の同窓会の写真が何枚か入っていた。

 あっそうか。差出人の女性は結婚して苗字が変わっていたから誰だか分からなかったのだ。

 写真を手にとって、一枚ずつながめてみた。あのときは薄暗かったからあまり気づかなかったが、最近のデジカメは高性能で、それぞれの酔った顔に刻み込まれた年輪をハッキリ映し出している。その中の自分の姿を見ても、そこに自然に埋没していて違和感のカケラもない。

 このメンバーの卒業式の様子を、当時8ミリが好きだった父が撮影していた。保存が悪くてフィルムがヒビが入って割れかけていたのを、数年前にVHSビデオにダビングしてもらった。いつだったか友達の家でこれを再生したら拍手喝采。さすがに動画は子供たちの表情を生き生きと捕えている。

 あの時代の8ミリは音声は別だった。ボクが卒業式で読んだ答辞を録音した音声テープも残っているが、これはカセットテープが出現する前のオープンリール。あの頃の自分の声を聞いてみたいが、さすがに今では再生のしようがない。もう役にも立たないだろうが、かといってこういう古いものは捨てられない。

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2007年10月 2日 (火)

距離感

 他人(ひと)との距離感というのは難しい。

 誰でも自分の心の中に土足で踏み込まれると不愉快になるが、物理的な空間でもそれと同じような領域がある。動物でいえば『なわばり』、人間だと他者に侵入されると不快になる空間、これをパーソナル・スペースというらしい。

 関西人はだいたいこの距離が短い。親しくなると遠慮なく懐に飛び込んでくる。何でも開けっ広げに話すし、相手のことも何でも知りたがる。家族でも友達でも男女の関係でもそういう傾向が強い。こういうタイプの人には、隣に誰が住んでいるのかも分からないような高級マンションでのセレブな生活は向いていない。

 ボクは大阪生まれだが、どちらかというとこの接近戦は苦手だ。ボクシングならヒット&アウェイ。ふだんは適当な距離を保って傍観しつつ、必要なときだけ近づくというのがいい。

 なかなか腹を割って話せる友達ができないし、ときには冷たいヤツだと思われる。でも悪気があってそうしているわけでもない。少し離れたほうが相手のことがよく見えるし、何よりも気楽でいい。

 必要以上に他人(ひと)と群れることも性に合わない。できれば休日は放っておいてもらいたい。集団社宅だとか社員旅行などというのもマッピラ御免。福利厚生とやらに使うカネがあるのなら給料を上げてほしいと思う。

 協調性があるように誤解されているが、本当はワガママな人間。一度限りの自分の人生なら好きなように生きたい。自分の好きなものを食べて、最期は好きなように散りたい。

 きっとこんな人間は組織には向かない。もう少し歳をとればさっさとリタイアーして、どこかの山中で晴耕雨読の隠遁生活をするのが夢。 

 このブログの更新が突然止まったら、きっと人知れず朽ち果てている時である。

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2007年9月26日 (水)

懐かしいもの

 懐かしいもの・・・

 エポック社の野球盤。ボンネット型の市バス。中学時代に使っていたアルミの弁当箱。マディソンスクウェアバッグ。幸福駅の切符。ジッポーライター。山口百恵のラストコンサート。

 往診に来る医者のクレゾールの臭い。氷まくら。少年マガジンの創刊号。小学校の石炭ストーブ。修学旅行専用列車『希望号』。まだ歌詞カードがあった頃のカラオケ。独身寮の卓球台。インベーダーゲーム。

 怪傑ハリマオ。ビー玉を入れていた宝箱。運動会のハチマキ。中学の英語の先生が持っていたオープンリールのテープレコーダー。大阪万博のガイドブック。地上にあった頃の京阪三条駅。その三条から大津行きのチンチン電車(京津線)。

 紙芝居。こたつアンカ。おしゃべり九官鳥。給食の脱脂粉乳。学生服の金ボタン。北アルプスのテントから寝転がって眺めた満天の星。卒業写真。500円札。

 あたり前田のクラッカー。跳び箱やマットが積んである体育用具室の石灰の臭い。親知らずの抜けた歯。ユースホステルの会員証。掛布・バース・岡田のバックスクリーン3連発。ルービックキューブ。

 マーブルチョコレート。貸本屋。鉄筆で書いてガリ版印刷した学級新聞。大学時代に住んでいた下宿のカギ。礼文島桃岩から望む利尻富士の雄姿。手打ちのパチンコ台。VANの紙袋。新生児室で見た子供の寝顔。

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2007年9月24日 (月)

男の涙

 ヤクルト古田監督の退任会見を見た。

 記者の質問に口ごもり、最後は涙で言葉にならなかった。テレビカメラがその表情を容赦なく大写しでとらえる。無言のシーンが長々と続き、カシャカシャとシャッター音だけが空しく響く。こんな場面は適当にカットしてあげるのが思いやりというものだ。万感胸に迫る思いがあふれ出したのだろうが、見ている方が気恥ずかしくなって目を背けてしまった。

 生身の人間であれば喜怒哀楽もある。野球評論家のハリさんは男が人前で涙を見せるのが嫌いで、いつも厳しく「喝(カーツ)!」を入れるが、ほとばしる感情を素直に表現するのも悪くはない。しかし知将古田には涙は似合わないと感じた。不本意な成績に断腸の思いだったのかもしれないが、捕手と監督との二足のわらじはしょせん無理。でもまだ彼は燃え尽くしたわけではないのだから、再起を期してゆっくり充電してほしい。

 だいたいボクは、男の涙というのはあまり好きではない。

 山一証券が経営破綻したときに、当時の野沢社長が、
「社員は悪くないんです~」と号泣して謝罪する場面があったが、これこそ醜態の最たるもの。だいたいトップが泣いてすむ話ではない。泣くならすべてを終えてから、柱の陰でそっと涙を拭うのが
昔ながらの男の美学である。

 先日の安倍さんの涙ウルウル退任会見にしても、あまり格好のいいものではない。ちょっと古い話だが、細川さんが電撃的に政権を投げ出したときのほうがまだスマートだった。

 男の涙で忘れられないのは、何といっても清原と小錦。

 清原の涙は昭和62年(入団2年目)の日本シリーズ。巨人を相手に3勝2敗と勝ち越して迎えた第6戦。リードされた巨人の攻撃も9回2死走者なし。あとひとりコールが西武球場にこだますると、ファーストの守備位置についていた清原の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ始めた。

 2年前のドラフトで、あこがれの巨人はあろうことかPL同級生の桑田を指名した。裏切られた思いの清原はその怨念を隠して西武入り。それがわずか2年後、その球界の盟主を破っての堂々日本一。二十歳の若者はもう涙をこらえきれない。彼はグランドにこぼれ落ちる涙を拭おうともしなかった。見ているファンにも熱いものが伝わってくる感動のシーン。これを見て、清原の悔しさを改めて知った。

 大相撲では小錦。外国出身力士として初の横綱を期待されたが、怪我が多くてここ一番に弱かった。その彼が昭和62年九州場所で幕内初優勝を決めたとき、勝ち残りの土俵下で思わず涙を流した。当時のマスコミは歓喜にむせぶ男泣きと報じたが、小錦は引退後に「何故もっと早く優勝できなかったのか」と悔しさのあまり思わず泣いてしまった、と説明している。当時は敵役だったこの相撲取りをボクはひそかに応援していたのだが、今にしても価値ある美しい涙だったと思う。

 男は泣くなとはいわない。でも、一生のうちに泣くことはそうそうはないと思うのである。

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2007年9月18日 (火)

同窓会

 昨夕は小学校の同窓会。

 早いもので卒業してから40年以上になる。恩師の誕生祝い(84歳)ということで、同級生45人のうち20人ほどが集まった。

 長い東京暮らしでしばらくご無沙汰を続けていたため、顔を会わすのは卒業以来という仲間も何人かいた。お互い年をとったことに目を見張るが、よく見るとそれぞれ面影は残っている。

 毎回出席するのは、地元に根の生えた自営業者が多い。転勤族のサラリーマンを追跡するのは難しく、残念ながら3分の1近くは行方不明。また早々と2人もあの世に行ってしまったことにも驚いた。

 人生の黄昏どきが近づいた男連中に比べて、女性陣は元気いっぱい。われわれの年代にもなればだいたい子育ても終えて、ヒマとエネルギーを持て余している。早い人なら孫もいて、うれしそうにケータイの待ち受け画面を見せてくれる。親の介護ならぬ亭主の介護をしている女性も2人。そろそろわれわれもそういう年代に差しかかりつつあるという現実に直面させられる。

 小学校のあたりもすっかり変わってしまった。そんな思い出話をしていたら誰かが箸紙の裏を広げて、
 「これが○○文具店、ここが駄菓子屋、こっちが△△クンの家、その隣が散髪屋」
と位置図を描きはじめた。すぐさま回りからいくつも手が伸びてきてペンを奪い合う。あっという間に当時の地図が復元されて、店内に歓声が湧き起こる。

 昨日会った人の名前は思い出せないし、昼食に何を食べたかも答えられない。なのに、この遠い過去の記憶力の正確さはどうだろう。

 久々に子供の心を取り戻しながら、グラスを重ねて夜は更けていく。明日から仕事だとか言いながら、結局お開きになったのは11時前。

 帰りの電車で、恩師からいただいた俳句集をパラパラと眺めていたら、こんな句が目にとまった。
 「教え子も 五十路となりて ビール汲む」
 ご健勝を祈ります。

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2007年8月27日 (月)

縁結び

 仕事柄さまざまなお宅を訪問するが、最近よく相談を受けるのが縁談と養子縁組である。

 男女の縁談は難しい。相手もボクに言うくらいだから、誰にでも頼んでいるのだろう。そう思って、その手の話はサラリとかわすことにしている。

 資産家の老親がいて、婚期を過ぎた息子さんや娘さんがいる。たいていの場合は、ボクがよく知っているのは親御さんで、お子さんとはあまり面識もない。本人をあまり知らないのに他人に紹介するのも失礼な話だろう。

 お父さんと話していると、その娘さんがお茶を出してくれたりする。「この子ですよ」と親が笑う。目尻の小ジワは年齢を隠せない。はにかみながら下がっていく横顔を見ながら、若い頃は縁談話の一つや二つはあっただろうと想像する。しきたりに厳しい旧家だから、親の反対で泣く泣く別れたのかもしれない。結婚は当人だけの問題ではない。あとあとの付き合いを思うと、家格や職業で二の足を踏むこともあるだろう。

 親は子供の幸せを願いつつ、それでも手元から離したくない。結局は親の庇護の下で、社会の荒波も知らずに箱入り息子(娘)のまま年だけ重ねていく。

 ボクはこういう人を何人も知っている。若い頃に勘当されてでも親元を飛び出して苦労するのと、どっちが幸せだったのかは誰にも分からない。

 もう一つの養子縁組。子供のないご夫婦か独身の方から時おり相談があるが、これも難しい。養子になるのはたいていは甥や姪。成人してから籍だけ入れるのは情が通わない。相続権はあっても扶養義務もある。損得だけでの結びつきはだいたいうまくいかない。老後を任せて自分たちが築きあげてきた財産を継がせるのだから、よくよく相手の人物をみて決めて下さいと答えるしかない。

 これから少子化・晩婚化でますますこの種の話は増えていくだろう。本業よりもずっと悩ましい相談である。

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2007年8月23日 (木)

転機

 仕事柄、さまざまな相談をうける。

 もちろん専門分野以外の相談もある。この場合は初めに門外漢であることを断ったうえで、自分の意見をいう。しかし、最後は自分の責任で決断してもらわないとならない。

 もう2年ほど前に、仲のいい友達から転職の相談をうけたことがある。大手企業のサラリーマンである彼は、職場の人間関係に疲れていた。そんなときに後継者のいない親戚から、洋菓子店の跡を継いでくれないかという話が舞い込んできた。迷った彼はボクに相談を持ちかけてきたのだ。

 何度もメールのやりとりをした。決算書の分析もしたが、イエス・ノーを左右するような根本的な問題は隠れていなかった。そのときボクが彼に出したメールの一部を、昨夜たまたま見つけた。今でも自分の考えはまったく変わっていないので、ちょっと紹介する。

 いちばんのポイントは、その仕事を引き継いだ場合に「事業の面白さを感じられるかどうか、夢の実現が可能かどうか」ということだと思う。そして突き詰めると「その夢や自由」と「現在の仕事や社会的地位・収入」とを秤にかけたとき、どちらを選ぶかということだ。

 以下は個人的な雑感。

 会社を辞めるのは簡単。10年前の自分がそうだった。ちょっと状況は違うけど、時間やポジションに拘束されない自由業に憧れがあった。「隣の花は赤く見える」というヤツかも知れない。

 しかし、組織の後ろ盾がなくなると、自分ひとりの力では意外と何もできないことがすぐに分かった。「何でも、自分で考えて、決断して、責任をとる」という当たり前のことができるようになるまで、数年かかった。17年間のサラリーマン生活で、大企業病にかかっていたのだと思う。

 組織に浸かっているとなかなかピンとこないけど、自営業というのは自由であるだけになかなかシンドイ。サラリーマンはしょせんは自分は給料もらっているだけという感覚、自営業はカマドの灰まで自分のモノという感覚、その違いは、辞めてから初めて実感するよ。

 読み返していて、イッチョマエのことを書いている自分が可笑しい。でもそのとおりだ。退職してからのさまざまな出来事がふと脳裏をよぎる。

 そして、その彼は結局会社を辞めなかった。迷った末に組織に残るのも大きな決断。でもあのときの熟慮はきっとムダにはならないだろうとボクは信じている。

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2007年7月16日 (月)

神戸にて

 台風が通過したので、ちょっと車を走らせてみたくなった。

 妻や子供たちと相談したら、垂水のポルトバザールで買い物をした後、神戸で食事をしようということになった。  Tarumi006_3

 ポルトバザールは明石海峡大橋のすぐ近くにあるアウトレットモール。ウチからだと、阪神高速・神明道路を乗り継いで 70kmほど。気晴らしのドライブにはちょうどいい距離である。

 心地よい潮風に吹かれながら散歩や買い物をした後、同じ敷地にある『さかなの学校』で塩つくりの体験学習をさせてもらった。濃縮された海水を30分ほどかけて鍋で煮詰めるのだが、これが結構面白い。

 それぞれ満足して、帰路は2号線を海岸線沿いに神戸に向かう。夕食はポートピアホテルのレストランを予約してある。

 このホテルには思い出がある。今から7年前のクリスマスのこと。ようやく試験に合格したボクはここでクリスマスパーティーをした。少し広めの部屋をとって、料理と飲み物を持ち込んだ。まだ幼かった子供たちは何も分からずはしゃぐだけ。そして合格するまで熟成させてあった極上のシャンパンを開けたとき、妻の目から大粒の泪がこぼれた。退職してすでに5年。自分も苦しかったが、さぞ家族も辛かっただろうと思う。

 この夜がボクの二度目の人生のスタート。ホテルのロビーを歩きながら、そのときのことをほろ苦く思い出した。子供たちが父親の受験生活をほとんど知らなかったことだけが、まだしも救いである。

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2007年7月14日 (土)

南船場の夜

 昨夜、南船場で同業者の勉強会があった。

 3年ほど前から、同業者10人ほどで勉強会をしている。月1回程度で担当は持ち回り。1時間半ほど真面目な勉強をして、その後は近くの店で二次会というのがいつものパターン。

 勉強もさることながら、毎回違う事務所を訪問するというのも面白い。われわれの業界は一匹狼が多いから、たまに他の事務所を見せてもらうと新鮮な刺激になる。

 昨夜の担当者Tさんは、ボクよりひとまわり年下の女性。事務所は地下鉄長堀橋駅近くのデザイナーズマンションのような造りで、住まいを兼ねている。

 人生半ばまで、波乱万丈の経験を積んできた人らしい。そのなかで資格を取って独立開業したのは立派だと思う。

 聡明で美しく、同性からも羨望の的だろう。しかしこういう職業では、美しいがゆえの難しさもあるのではないかとふと思った。

 ボクは同業者団体のある役員をしている。簡単にいえば、同業者とお客さんとのトラブルを仲裁するような役回りである。半年ほど前のこと、あるお客さんからの申し立てで同業者を呼んで面接をしたことがあった。

 その同業者が女性であることは予備知識として知っていたが、応接室に入ってきた姿を見て驚いた。美しすぎるのだ。1時間ほど彼女の話を聞いていたが彼女には何の非もない。どうやらそのお客さんが彼女に邪(よこしま)な気持ちを持ったようだ。しかし思い通りにならず、逆恨みして彼女を訴えることになったというのが事の真相らしい。

 われわれの仕事は、密室でお客さんと二人きりになることも多い。なかにはエネルギッシュな壮年の男性もいる。もし自分が女性であったとしたら、もう少し相手との距離感や接し方にも気を遣うことになるだろう。

 15_2_mapきときと』という富山料理店で食事をした後、彼女の行きつけのバーに案内された。次々と現れる常連客はすべて知り合い。器用に話をふり向けながら近づくでもなし、遠ざかるでもなし。こうして彼女はこの店の優しい空気に浸りながら、浮世の垢(あか)を洗い落として自分自身に戻っていくのだろう。都会の真ん中で、女性がひとりで小舟を操って生きていくのは並大抵のことではない。間接照明に浮き上がった彼女の横顔に言い知れぬ寂しさを見た思い。

 12時前にお開きになって、彼女だけが店に残った。いったい何時まで飲んでいたのだろうか。翌朝、残ったワインのボトルは全部開けましたとお礼のメールが来た。

 男に生まれてよかったかな・・・

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2007年6月12日 (火)

父の誕生日

 今日で父は80歳になった。

 昭和という激動の時代を生き抜いてきた。軍靴の音が響く中で、教育勅語を聞いて育った世代である。育ち盛りの頃には食料事情も逼迫し、満足な食事も与えられなかったはずだ。兄は戦死したが、本人は幸いにしてギリギリで召集されずに終戦を迎えた。

 実家のあたりは空襲で焼け野原になった。廃木を拾い集めて焼け跡からの復興、ヤミ市での物資調達。言葉でいうのは簡単だが、その苦労はとうてい戦後生まれのボクたちにはうかがいしれない。

 母と結婚して、ボクたち3人の子供を育ててくれた。今では3人とも所帯を持って、それぞれ第一線で頑張っている。みんな大阪で暮らしているから、一声かければすぐにでも集まれる。4人の孫たちも順調に成長してきた。年齢相応の衰えはあるものの、これまで大病を患ったこともない。仕事はほとんどボクに任せているから、まあ悠々自適の晩年といえる。

 同世代の人たちと比較したら恵まれた人生だろう。とりわけ若くして戦場に散っていった英霊たちに比べたら、生きて戦後の繁栄を享受できただけでも幸せだ。

 ここまで書いて、幸福とは何だろうかとふと思う。豪邸、高級車、海外旅行、グルメ三昧・・・人間の欲はキリがないが、はたしてそれを追い求めるのがいいのだろうか。

 40年近く前に亡くなった祖母は無類の暑がりだった。でもウチにクーラーがついたのはその祖母が亡くなった後のこと。母がよく「おばあちゃんにクーラーを使わせてあげたかった」と笑う。

 この物質文明の世の中で、後の時代ほど豊かな暮らしができるのは当たり前のこと。でも戦時中でも、粗末な卓袱(ちゃぶ)台を囲む子供たちの眼は輝いていた。少ないモノをみんなで大切に分けて使うという美徳が残っていたのだ。

 それにひきかえ、モノにあふれかえった今の世の中はどうだろう。カネがすべてで自分さえ良ければという風潮が強い。その中で利己的なマネーゲームに走る若者が増えてきている。

 ボクたちは戦争を経験したわけでもない。でも、そうかといって大量消費時代の申し子でもない。そのわれわれ世代が伝えていかねばならないのは『人に感謝する謙虚さ』ではないか。父の横顔を眺めながら、そんなことを考えていた。

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2007年5月29日 (火)

ラストメッセージ

 松岡農水相の自殺には驚いた。

 以前から悪い噂の絶えない人で、安倍内閣のアキレス腱になるのではないかと思っていた。およそ自殺などには縁のない強面(こわもて)タイプに見えたが、さすがに連日の国会質問で心労がたまっていたのだろうか。最近の答弁も精彩を欠いていた。辞めさせるタイミングを逸した任命権者の責任は大きいと思う。

 このニュースを聞いたとき、まず気になったのは遺書があったのかどうかということ。報道によれば安倍総理宛てなど数通の遺書が残されていたらしいが、内心ビクビクしている人もあるかもしれない。

 遺書は死んでいく人からの一方的なメッセージで、反論や質問はできない。残された人は長い人生をかけて、そのラストメッセージに凝縮された意味を探ろうとする。

 ボクは4年前に二人の友人を失った。
 Kは高校の同級生。Y証券の出世頭だったが、突然の経営破綻発表。その後は現場の支店長として、部下の雇用確保に走り回っていたと聞く。そのTが出張先のホテルで亡くなったという知らせを受けてボクは動転した。彼から2週間ほど前に電話をもらったばかりだったのだ。しかも長い間年賀状だけの付き合いだったのに。ものの10分ほどお互いの近況報告をしただけで、格別の用件もなかった。彼はボクに何か伝えたいことがあったのだろう。でもその真意は分からないままで、これから先もボクはその疑問を背負って生きていく。

 もうひとりのNは大学の同級生。大阪府の幹部職員だった。布団の中での突然死ということだったが、通夜の受付周辺での同僚たちのヒソヒソ話は明らかに不自然だった。Nも亡くなる1ヶ月ほど前に駅で偶然出くわした。通勤電車のつり革につかまってふとホームを見たら彼の姿があった。向こうもボクを認めて、窓ガラス越しに彼の口元が動いたのを記憶している。

 去りゆく人間の残す足あとは大きい。そして残された人間がその意味を考えなければならないが、真相はヤミの中。松岡農水相の場合はどうだろう。

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2007年5月19日 (土)

限りある命

 家族でしゃぶしゃぶの食べ放題に行った。

 かなりお腹を減らして挑戦したのだが、3枚目の肉皿をお代わりしたあたりから、もうイヤになってきた。野菜には手をつけずに、いじましく肉ばっかり食べたのも災いしたかもしれない。考えてみたら、もう食べ放題は卒業しなければならない年齢なのだ。

 余った肉皿を見ながら考えた。モノは限りがあるからありがたいし、大切に思うのだ。資源が無限にあれば、放蕩を尽くすに違いない。

 人の命もそうだと思う。古来から人々は不老長寿の薬を追い求めたが、そんなモノはないほうがいい。

 人生80年。40歳で会社を辞めたとき、ちょうど折り返し点だと思った。そして50歳の坂を越したあたりから、残りの時間の生き方を考えるようになった。

 人間誰しも死ぬことは怖い。しかし、人の命は限りがあるからこそ輝きを増す。人は皆、限られた時間の中で、この世に精いっぱいの足あとを残していく。人生の半ばを過ぎた今、人間が最後に目ざすものは『納得できる死に方』だと思えるようになった。年に何度か他人(ひと)の葬儀で棺に花を手向けるが、死に顔を見ながらいつもその人の人生を想う。

 ボクは12年前に大きな事故を経験して、九死に一生を得た。先日、実家の仏壇で線香をあげながら、まかり間違えば自分もこの中に納まっていたかもしれないとふと思った。

 あの事故に遭ったのも運、一命をとりとめたのも運というほかない。しかし、あの年ではまだまだ死に切れなかった。

 そして今、一度死に損なったこの命をまっとうすることが、亡くなられた方々への何よりの供養だと感じている。JR尼崎駅事故での生存者のコメントを読んでいて、改めてその思いを強くした。限りある時間を最期まで大切に、そして散りぎわは美しく。

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2007年4月28日 (土)

誕生日

 今日で53歳になった。

 生まれたのは昭和29年。
 どんな年かと問われても、もちろん記憶にはない。クラスには早生まれ(昭和30年)の子が何人かいたが、長じてからこの一年の差は大きいと感じるようになった。やはり20年代はまだ戦後なのかもしれない。

 その前年に、NHKのテレビ放送が始まっている。街頭テレビに人々が群がって栃錦や力道山に驚喜する映像はよく目にするが、当時はまだ映画全盛時代。ボクが生まれた前後に『七人の侍』と『ゴジラ』が封切られている。

 あとで知って驚いたのは、この年に円未満の通貨の流通が廃止になったということ。何とボクが生まれる少し前まで『50銭銅貨』なんていうのがまだ使われていたのだ。

 同い年生まれは、安倍晋三、カルロス・ゴーン、松任谷由実、ジャッキー・チェン、古舘伊知郎、デーブ・スペクター、林真理子、ミッキー・ローク、片岡鶴太郎、三雲孝江・・・など多士済々。日本で育った人はみんな、穴を繕った靴下を履かされて、脱脂粉乳の給食で育ったクチだ。自分より少し下の世代には価値観の違いを感じることがあるが、上の世代とは共通の思いが多い。

 ついでに53歳で没した有名人は、源 頼朝、武田信玄、レーニンなど。今と違って、昔の53歳といえばもう老人である。

 ロシア革命で燃え尽きたレーニンは、亡くなったときはすでに廃人同然だったという。いつの世でも、時代を大きく動かす原動力は若いエネルギー。暗殺された坂本龍馬は、明治維新まで生きていれば32歳。同じく吉田松陰は38歳、高杉晋作は29歳だったはず。人生の価値は長さではない。凝縮された人生は、短くても後世まで光り輝く。

 さて、これから先の人生。無為に歳だけ重ねることのないようにしなければ・・・

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2007年4月15日 (日)

花のちるらむ

  Kana_03s_1 仕事が予定より早く終わったので、東大阪まで足を伸ばしてTさんの入院先に見舞いに行ってきた。

 そのTさんは今年79歳。3月初めに脳梗塞の手術を受けて、病院で入院治療を続けている。少しずつ快方に向かっているらしいが、まだ会話はできる状態にはない。奥さんも療養中なので、3人の娘さんたちが交代で看病にあたっている。

 4人部屋を見回すと、同じような年恰好の人たちが首にチューブをつけられたまま眠っている。病室には枯れたような静寂さが漂う。娘さんから少し病状をうかがって、早々に失礼することにした。

 帰りの車で考えた。
 病院に縁がないのは幸せなことだ。たまにこうして医療現場に出くわすと、改めて健康のありがたみを感じるとともに、やるせない思いが募る。もう一度 Tさんの元気な笑顔を見たい。

 花吹雪が舞う中をハンドルを握っている。もうサクラも盛りを過ぎたが、そんな潔さを日本人は好むのだろうか。長生きしようともせず散り急ぐこの花は高齢化社会にはおよそ縁遠い。

 「ひさかたの光のどけき春の日に  
       しずこころなく花のちるらむ」(紀 友則)

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2007年4月 5日 (木)

出会い

 初対面の人と会うのは楽しいものだ。

 先方の会社や自宅でお目にかかることもあるし、金融機関の応接室などで紹介を受けることもある。

 これは一種の面接で、お互いの値踏みの場。ボクはなるべく、自分がしゃべるよりも相手の話を聞くように心がけているつもりだが、ついつい口が出てしまう。相手は一人のときもあるが、自宅だと奥さんも同席されることが多い。そしてしばらく話していると、何となくその家の舞台裏が見えてくる。

 若い頃、ボクは初対面の人が苦手だった。特に社会的地位のある年配の人がダメだった。世間話というのが不得意で、極端に緊張していたように思う。自分を低く見られることを恐れていたのかもしれない。

 それがいつ頃からだろうか。まったく何とも思わなくなって、逆に初対面を楽しめるようになってきた。心に多少の余裕ができてきたからか、それとも単に歳を重ねたせいかもしれない。

 ベテラン投手になれば、さまざまの球種を持っている。相手が待っているタマは分からないが、ボクは初めての対決では小細工を弄せずにコーナーいっぱいに直球を投げる。それが自分を理解してもらえるいちばんいい方法だと思うからだ。

 昨日初めてお目にかかったのは、大阪近郊で養鶏場を営むAさん。1万3千羽の鶏を飼って、毎日9千個の卵を出荷している。ボクにとってはまったく未知の業種で、生き物相手の苦労話などをタップリ聞かせていただいた。働き者で社交的なご主人とシッカリ者の奥さんという理想的な組み合わせ。小一時間があっという間に過ぎていく。

 またひとつの新しい出会いから、知らない世界にフィールドが膨らんでいく。
 ちょっとワクワクする瞬間である。

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2007年2月17日 (土)

第二の人生

 『第二の人生』というと定年後の人生みたいに思われるだろうが、そういう話ではない。

 世の中には、さまざまな人生がある。

 昨日の産経新聞によると、日本ボクシングコミッション(JBC)が、警視庁の協力を得て現役ボクサーや元選手などを対象とした採用説明会を実施したらしい。

 ボクサーライセンス保持者は現在3,200人で、毎年800人が引退するなど入れ替わりが激しい。選手寿命が短く大半が20代で引退するが、その後の人生をどう送らせるかが各ジムの悩みの種だった。

 一般にスポーツしか経験のない純粋培養の選手たちはつぶしが利かず、犯罪に手を染めたりすることもある。しかしボクサーとしての強靭な体力や精神力は、警察官としての仕事にはうってつけだろう。

 そんなことを思っていたら、たまたま昨夜のNHKで、JBCから引退勧告を受けた東洋太平洋ライトヘビー級前王者・西沢良徳選手(41)のドキュメンタリー番組を放送していた。現役にこだわる西沢選手は日本でのライセンスを失い、これからは海外に活躍の場を求めることになる。

 これはそれぞれの人生観や職業観の問題だから、他人が容喙すべき筋合いの話ではない。しかしボクはどちらかというと、ボロボロになるまで頑張るよりも、惜しまれるうちにキッパリと身を引いて、転進を図る人生に共感を覚える。古くは山口百恵、中田英寿、新庄剛志、ついでにディープインパクト。  

 でも、歯を食いしばって節制や練習を重ねて自己の限界に挑むというストイックな生き方も悪くはないと思う。自分には絶対マネできないけど、そういう不器用な頑固さもちょっと応援してみたくなる。ということで、今年は工藤公康と高橋尚子に注目しよう。

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2007年2月 3日 (土)

ギアチェンジ

 午前中の新幹線で帰阪。
 朝刊に目を通しながらウトウト・・・ ふと気がつくとコーヒーもすっかり冷めてしまっている。いったいどれくらい眠ったのだろう。窓の外に目をやると、ちょうど米原駅を通過。昨日の雪も半分くらい解けて消えている。

 出張は疲れるという人がいるが、ボクはどこでもグッスリ眠れるタチだから、さほど苦にはならない。むしろたまに出張すると、日常の生活や仕事から解き放たれてほどよい気分転換になる。

 毎日同じサイクルのくり返しだと、熟練はあっても成長は少ない。そこに変化をスパイスとして織り込むことによって、知識は定着し技能は深度を増していく。

 昨夜集まったメンバーは総勢12人。会うといってもせいぜい年1回くらい。しかし、そういう適度な距離感を保ちながら長くつきあっていくのもいいものだ。昔の仲間の何気ないひと言が励みになったり、示唆を受けたりすることもある。久しぶりに会った自分が彼らからどう見えているかも気になるところだが、長い時間のサイクルで接するからこそ気づくこともあるだろう。また次に会うときは、お互い今よりもっといい表情をしていたいと思う。

 あっという間に新大阪。
 さて、しばし息抜きした後は、しばらくトップギアで突っ走る。

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2007年1月28日 (日)

親族会議

 昨日・今日と続けて、ある資産家の親族会議に招かれた。

 95歳の母親は数年前から老人介護施設で寝たきり。7人の子供たちの中で、すでに1人は他界し、もう1人も道楽の果てに健康を害して病床にある。

 母親の財産をめぐっては、相続や遺言、財産管理など解決しなければならない問題は多い。しかも、兄弟の思惑はバラバラで一筋縄ではいかない。まだかなり時間がかかるだろう。

 その本題は別として、ちょっと感じたこと。

 お目にかかった兄弟やその配偶者たちは、だいたい昭和ひと桁からふた桁の前半あたり。ウチの両親より多少若いくらいで、昭和の動乱期を生き抜いてきた世代の人たちである。

 当時は子沢山だったから、7人兄弟というのもさほど珍しくはない。同じ親から生まれて同じものを食べて育っても、それぞれ社会の荒波に揉まれて半世紀以上も経つと、顔つきも態度も言葉も違う。兄弟は他人の始まりというが、教えられなければとても兄弟とは気づかない。

 親を介護すべき年代になって、まだ親の財産をアテにするとは何とも浅ましい。ボクは子供たちに老後の面倒を看てもらおうとは思わないが、まずはシッカリと自立して巣立ってほしい。そのために精一杯の手助けをするのが親の務めだと思う。

 そんなことを考えながら、駅からの帰り道。日曜日というのに塾帰りの中学生たちが自転車で追い抜いていく。いったい人生何が幸せなのだろう。勉強していい学校に入ることと、たくましく生きていく力とはまた違うような気もする。この子たちの50年後をぜひ見てみたいものだ。

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2007年1月25日 (木)

水路づけ

 最近、ちょっと民法の本をパラパラと読み返している。

 民法というのは、私人(しじん)間の権利調整のための基本法。知っていて損はないが、千条以上からなる大法典で、普通の人はだいたいどこから読んでいいか見当もつかないと思う。

 さて今から30年ほど前のこと、ボクは3年間ほど真剣に司法試験の受験勉強をしていた。今みたいに専門学校もないし、初学者向けのテキストもない。来る日も来る日も大学の図書館や下宿で、それこそ気が遠くなるような専門書とにらめっこしていた。民法の基本書だけでも7、8冊はあって、ひと通り読むには軽く1ヶ月はかかる。読み終えたらまた他の法律の基本書を読む。そのうちにその民法は半分くらい忘れる。そしてまた忘れた頃に読み返す。1年間、ずっとそのくり返し。

 その本のほとんどは、今でも自室の本棚の隅で埃をかぶっている。何でも捨てるのが好きなボクでも、さすがにこれだけは処分できない。先日その1冊を何十年ぶりかで手にとって、そっと開いてみた。図書館のようなカビ臭が広がって、若い頃の自分の書き込みやマーカーの痕があちこちに残っている。わら半紙のメモ書きにも若い頃の凝縮された思いが詰まっていて、眺めていると時を忘れる。

 久しぶりに読み返してみると記憶も戻ってくるし、今だから理解できる箇所もある。頭の中の古い回路に血が流れていくような感覚とでも言おうか。

 ボクが子供の頃のベストセラーで『頭の体操』(多湖 輝)という本があったが、その何冊目かのはし書きで、心理学者である著者が『頭の水路づけ』という話を書いていた。

 頭の働きが活発な若い頃に覚えたことは深層に水路として残るらしい。そして何十年経ってからでも、被(かぶ)った砂を取り除いて水を流してやれば元の水路に戻るという話。

 この年になると何となく分かる気がする。まあ若い人はシッカリ勉強しましょう。

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2007年1月22日 (月)

チェンジアップ

 日経新聞のスポーツ欄(木曜日)に、野球解説者の豊田泰光さんが『チェンジアップ』というコラムを書いている。

 反体制的な視点からドラフト制や高年俸など球界の問題点を一刀両断にしているが、一般社会にも通じる普遍性がキラリと光っていて、毎回楽しみにしている。

 昨年末に若手選手の指導法について書かれていた記事を読んで、なるほどと共感したのでちょっと紹介する。

 若手を指導するときに、強制的にバットを振らせて、自分の型にはめ込もうとするコーチがいる。しかし素質や才能は人それぞれだから、むしろその個性をよく見極めて、潜在能力を引き出すことが大切。無理に引き出しに押し込むのではなく、元々詰まっているものを上手に引き出すことが教えるということの基本だという。

 よく先輩から技術を盗めというが、盗むというのは正確ではない。学習とは他人から何かを奪うのではなく、自分で家を捜すことなのだ。答えは常に我の中にある。それが自己啓発だ。

 なかなか納得できるいい話。これは野球だけでなく、万事に当てはまるだろう。
 学校を例にとれば、鋳型に押し込んで金太郎飴を量産するのではなく、子供たちひとりひとりの個性的な夢の実現を手助けするのが教育の役割だと思う。

 改正教育基本法では、愛国心の押しつけや教育現場への管理強化が懸念されているが、はたして子供たちの夢は近づくのか遠のくのか。願わくばのびのびと健やかに育ってほしいものだ。

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2007年1月12日 (金)

夢とドリーム

 昨年末、何度か松坂投手の記者会見を見た。

 ふだんはユニフォーム姿しか見ることがないが、数年前に比べてずいぶんたくましい身体になった気がする。

 ボストンで行われたレッドソックスへの入団会見は堂々としていたが、そのなかで非常に印象に残った言葉がある。記者にこれからの夢を問われて、
「僕は夢という言葉が好きではない。見ることはできても、かなわないのが夢。僕はずっとメジャーで投げられると信じてやってきたので、今ここにいるのです。」
というような意味のことを言った。言葉を選びながら落ち着いて話す態度には風格すら漂い、並々ならぬ決意のほどがうかがえた。

 それを聞いていたボクは、この若者がいっぺんに好きになった。これはもっと年輪を積んだ大人でも、おいそれと言えるセリフではない。

 辞書を引いてみたら、日本語の『夢』は、はかなく頼みがたいもの、空想的な願望といった否定的な意味合いがある。それに対して英語の”dream”は、かなえたい願いというような前向きのニュアンスが強い。

 彼が日米の意味の違いを理解してあのように答えたのかどうかは分からない。でも気がかりなのは、彼の言葉がどのように英訳されて、それを聞いたアメリカ人たちがどう感じたかということだ。

 アメリカはもともと移民の国。新大陸で一旗あげようと、はるばる海を渡ってきた人たちだ。”American dream”という言葉に象徴されるように ”dream”という語を肯定的に使う。

 ところが日本から、それこそ夢のような契約金を手にしてやってきたこの若者が、最初の記者会見でいきなり「夢(=dream)というのは好きじゃない」と言うのを聞いたとしたら、自分たちが大切にしている価値観を根こそぎ否定されたような気がしないか、とりわけ排他的といわれるボストンの人たちが拒絶反応を示さないかと、少し心配になったのである。

 プロの世界はやっかみがつきものだ。慣れない異国の地では苦労も多いだろう。特に鳴り物入りで乗り込んできたこの日本のベビーフェイスに対しては、面白くないと感じる白人も多いと思う。しかしプロスポーツは結果がすべて。やかましい外野の口を封じるには数字を残すしかないのだ。
 夢ではなく”dream”の実現のために頑張れ!松坂!ついでに英語も勉強しようね。

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2006年12月19日 (火)

来るもの拒まず

 来るもの拒まず・・・

 若い頃から、他人(ひと)からの頼まれ事はよほどのことがない限りは断らなかった。仕事を引き受けるのはもちろんのこと、社内外の雑用やら同窓会の幹事やら、ケンカの仲裁から引越しの手伝い、身の上相談に至るまで・・・

 自分のような者でも相談してくれるのはうれしい。お人好しといわれそうだが、頼られると意気に感じて余計なことまでしてしまう。だから要領のいい輩(やから)には上手に使われていたかもしれない。

 何でも引き受けすぎて、最近はさすがに身体が回らなくなってきた。断るのは本意ではないが、これからはもう少し仕事も選ばないと、依頼人に迷惑がかかる。

 去るもの追わず・・・

 ボクは男でも女でも、自分から去っていく人は一切追わない主義。いくら寂しくても未練がましい態度はとらない。

 会社を辞めたいという相談があったら絶対に引き止めなかった。いい大人が考え抜いて出した結論には異を唱えるべきでない。ボクも経験があるが、決めるまではどれだけ悩んでもいい。しかし、こんな人生の大事は他人(ひと)に相談することではない。いくら親友でも話すのは自分で決めた後のこと。いったん口に出したら最後で、もう撤回はできない。少々の不満は誰にもあるが、我慢できることなら黙って平然としているのが大人だと思う。

 キライなのは酒場で会社の悪口をいう男、友達に亭主の不満をいう女。イヤならトットと会社を辞めるなり、離婚するなりしたらいい。

 自分は大海原を漂う小舟。しょっちゅう他の舟が近づいてきたり離れていったりする。来るもの拒まず、去るもの追わず。大きな舵取りだけは見失わずに、潮に任せて進むのがいい。自分ではいつもそんなふうに思っている。

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2006年11月23日 (木)

引退

 今年はスポーツの世界では引退の多い年らしい。

 プロ野球の新庄、サッカーでは中田英・フランスのジダン、フィギュアの荒川静香、F-1のシューマッハ、水泳のイアンソープ、名馬ディープインパクトなど、まだ現役を続けられそうな大物が相次いで引退した。

 往年の野村監督のように、ボロボロになるまで現役にこだわる選手もいる。しかし最近の若い人たちは、余力を残して第一線から退いて、また違う世界の新しい目標にチャレンジするのが流行りらしい。そして彼らに共通するのはピークに引退する美学である。

 日本には昔から「散り際の美学」とか「晩節を汚さず」とか言って、惜しまれつつ美しい最後を迎えることを尊ぶ文化がある。人気絶頂の国民的英雄がアッサリとその地位を捨てて、新たなステージへ飛び立つ。その後ろを振り向かない潔さはファンに強烈な印象を残す。芸能界ではかつての山口百恵がそうだった。

 その意味で気になるのは Qちゃんこと高橋尚子選手。降りしきる雨の中での東京女子マラソンは惨(みじ)めだった。以前はもう少しふっくらしていた横顔にもシワが目立ち、鍛えあげた身体は見るたびに痩せていく。後ろについて走るのはQちゃんには似合わないと心配して見ていたら、案の定30キロの勝負どころで失速。沿道のファンの歓声が傘の下から虚しく響きわたる。

 レース後の会見では引退を否定して北京を目ざすとのこと。ファンとして応援はしたいが、もういいじゃないか、ゆっくりしたらどうかとも言いたくなる。過去の輝かしい戦歴と無邪気な笑顔をそのままの姿で記憶の中に封印したい。

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2006年11月21日 (火)

父と子

 ボクが勤めていた会社を辞めて父の仕事を継ぐことを決めたのは40歳のとき、今から12年前のことだった。

 そのとき父はすでに67歳。息子の予期せぬ決断にさぞかし驚いたことと思う。リタイアーした後、自宅の一部を事務所に改造して、無理せずに自分一代でこなせる程度の仕事ができたらいいと考えていた。それが突然の息子のUターン。会社で何か不都合なことでもあったかと、要らぬ心配をしたかもしれない。

 いっぽうボクはボクで、妻子の将来や親の老後のこと、自分自身の人生設計や持ち家のことなど色々と考えを巡らせていた。そして妻と相談を重ねて、最後にたどり着いたのは退職して大阪に帰るという結論だった。

 今思えば、かなり思い切ったリスクのある決断だった。ボクは世間で名の通った会社の中間管理職としての地位と生涯賃金を捨てて、名刺のない一人の受験生になった。それから数年かけて、受験勉強の傍(かたわ)ら父の仕事を見よう見真似で覚えていくことになる。

 父と息子というのは、母と娘とは違ってあまり多くの言葉を交わさない。でも黙って背中を見ているだけで、親子ならある程度のことは分かる。ボクも必要以上に父の真似をすることを好まなかったし、父もあまり細かくあれこれ言わなかった。

 二人で一緒に顧問先を回ったのは、せいぜい2,3年くらいだったと思う。いい年をして、いつまでも親の庇護の下にいては信頼も得られない。そう思って一人立ちした後は、壁にもぶつかりながら少しずつ自分のスタイルを築き上げていくことにした。

 そして、その延長線上に今の自分がいる。
 冷静に自分の受験環境や父の肉体的衰えを考えると、ギリギリのタイミングでの決断だったかもしれない。
 その父も来年80歳。年相応に老いも忍び寄り、だいぶ耳も遠くなってきた。同世代の仲間が次々と廃業していく中で、事務所の陽だまりでのんびり新聞を読んでいる姿を見ていると、これで良かったのだろうとふと思える今日この頃である。

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2006年11月 9日 (木)

寄る年波

 年はとりたくないものだ。

 先週 南淡路でテニスをしていて、足がついていかずに転倒した。コートにお尻を思い切りぶつけて、しばらく立ち上がれなかった。幸い大事には至らなかったが、まだ寝返りしても少し痛い。自分では若いつもりだったが、日頃の運動不足で足腰が弱っているのだろう。

 足といえば、若い頃ボクは相当の汗かきだった。特に足先が蒸れて、夜靴下を脱ぐと足指の間がネットリして不快な臭いが漂ったものだ。それが不思議なことに40歳くらいからその症状がまったくなくなった。靴下の中に汗をかかなくなったのだ。それどころか最近では足先が冷えてアカ切れするようになった。冬が特にヒドイ。血行が悪くなってきたのだろうか。放っておくと踵(かかと)が切れて痛いので、去年から靴下の下に保温ソックスとやらを履いている。でもこれを一日履いているとかなりキツくて、家に帰って湯船で足先を伸ばすとホッとする。中国の纏足(てんそく)女性の辛さが分かろうというものだ。

 老眼の進み方もヒドイ。ここ数年、毎年メガネを作っているが進行が止まらない。裸眼だと本屋の背表紙が読みづらくなってきたのはちょっと情けない。

 薬は好きではないが、一昨年あたりから健康補助食品(サプリメント)を飲み始めた。最初は2,3種類だったが、最近では毎朝、シジミエキス・玉ねぎエキス・プロポリス・ブルーベリーから黒酢に青汁まで身体にいいと言われるモノは片っ端から飲んでいる。そのお陰かどうかは知らないが、2年近く風邪を引いたことがない。

 老化は誰にも平等に押し寄せる。最近ではあまり自然の摂理に逆らわず、無理なく年を重ねていけたらと半分あきらめている。

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2006年8月19日 (土)

Uターン

 先週の土曜日、近所の人たちと飲みに行った。

 30代から50代まで男ばかり総勢5人。子供の年も似かよっていて、年に1回くらいは『ご近所会』と称して駅前の盛り場に飲みに出る。

 5人のうち3人は、今子供たちが通っている地元の公立小学校出身者。この地に生まれて育ち、親の仕事を継いで結婚し、また子供が同じ学校に入って順番にPTAの役員を引き受けている。JCやロータリーの肩書きもついて地元では名士。駅前の飲み屋街にも頻繁に出入りしているから、なじみの店も多い。

 2軒目のスナックで誰かのカラオケを聞きながら、こういう人生もあるのだと改めて感じ入っていた。

 それに引きかえ自分はどうだろうか。大学を出てすぐに上京し、東京の大きな海で揉まれてきた。その後40歳のときに大阪に舞い戻って、結局は親の跡を継ぐことになったが、これも一種のUターンというのだろう。若くて吸収力のある時期に広い世界を見て多くの経験を積んだことは、その後の自分にとって得がたい財産になったことは間違いない。

 彼らのローカル色の濃い昔話は途切れることもなく、ボクはもっぱら聞き手に回る。自分の経験談を披露しようにも、かなり位相が違っていて何から話していいのか戸惑う。そして結局は、最近の近所の話題やら子供の話が中心になる。

 歩いて帰れるから、時間も気にならない。ようやくお開きになったのは、夜中の1時過ぎ。こうして地元で完結する生活も楽でいいけど、あまりすべてが近接しているのもちょっと窮屈な気がする。

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2006年8月 9日 (水)

遺言のすすめ

 高齢の資産家の方から、相続についての相談を受けることがよくある。

 健康を害すると気が弱くなって、自分が亡くなった後のことが急に目の前に迫ってくるらしい。子供たちに財産をどう分けたらいいか、相続税を納められるか、果ては奥さんの老後の面倒を誰に看させるかなど、心配の種は尽きない。身内にも相談できないことがあるらしく、病院に呼ばれることもある。病床で真剣に悩んでおられる姿を見ると、いっそ財産がなければこんなことで神経をすり減らすこともないのにと、お気の毒に思う。

 そんなとき、ボクはよく遺言をすすめる。遺言とは亡くなっていく人があらかじめ分け方を指定しておく法律行為で、上手に活用したら相続争いを未然に回避することができる。これがなければ、基本的に法定相続分をベースに話し合うことになるが、ボクはこれまで身内の骨肉の争いを幾度となく見てきた。いきなり目の前で罵り合いが始まって、わが身の置き場に困ることも再々あった。

 世間では、相続がきっかけで仲の良かった兄弟が疎遠になるという話はよくある。財産の話やお金のことは、身内であってもなかなか言いづらい。だからボクは、父親が元気なうちに子供たちを呼んで「自分の財産はこれだけあって、それをこんなふうに分けようと思っているけど、それでいいな」という確認をする場を持てばいいと思っている。そして、心配ならその内容を遺言書にしておくといい。親の意思ということになると、よほどの内容でない限り、子としては背きにくいものである。

 日本人の特徴は、多くを語らないこと。でも、言わないと分からないこともある。暗黙の了解として避けてきたことがトラブルの元になったりする。相続が争族にならないように、遺言をおすすめしたい。

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2006年6月16日 (金)

一期一会

 仕事帰りに本屋に立ち寄ることが多い。帰宅途中でよく行く店はせいぜい2,3店で、だいたい売り場のレイアウトも頭に入っている。広い書店でも、結局いつも行くのは同じコーナーだからあまり新しい発見はない。

 たまに知らない本屋に入ることがあるが、これは結構面白い。待ち合わせの時間に早く着きすぎたときなど、フラッと通りがかりの店を覗いてみる。そうすると、ふだん目にしない本がヒラ積みになっていたりして、しばし立ち読みの足が止まる。

 そんな一見(いちげん)の店で買おうか買うまいか迷った末、時間がなくなってそのまま買わずに店を出ることがある。そして数日経ってからふと思い出して、なじみの書店で同じ本を探す。でもそのときはもう書名や著者も半分忘れている。店員に探してもらうこともできず、見つかったタメシがない。そんなことを何回か経験して、最近では、知らない本屋で見つけた興味のある本はその場で買っておくに限る、と思っている。

 その話を家で妻にしたら、彼女も同じようなことがあると笑う。毎日同じスーパーに行くと、同じ棚で同じモノを買っている自分に気づくという。ときどき気分を変えて別のスーパーに行くのは違う商品を買うためなのだけれど、よく探せばそれはいつものスーパーにもあるのよねぇ・・・とため息まじりに言う。

 ヒトだけでなく、モノとの出会いも一期一会。バーゲン品を買わずに帰ってきて後で後悔するなんてことありませんか・・・ 人生タイミング。勝負ドコロでの思い切りが大切なようであります。就職しかり、結婚しかり・・・

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2006年5月29日 (月)

引き際

 女子フィギュアの荒川静香選手が、プロ転向を発表した。

 まだもう少しできたのではと思うが、おそらく彼女自身は悔いはないのだろう。頂点を極めた者が惜しまれつつ第一線から身を引くというのは、ボクみたいな浪花節的感性の琴線に触れる。かっての山口百恵やキャンディーズの引退劇のときもそうだった。荒川選手の真一文字に結んだ口元からは生来の意思の強さが感じ取れる。残念だけどこれも彼女の英断。今後の新しい人生にエールを送りたい。

 対照的なのが、村主章枝選手の笑顔。ハッキリした端正な顔立ちは氷上の大舞台に映えるが、なぜだかいつも悲壮感が漂う。最近バラエティ番組でよく見かけるが、タレントとの不慣れなやりとりはぎこちなく、見ていて気の毒。今後、彼女が目指している方向がよく分からないが、競技を続けるつもりなら中途半端はよくない。プロダクションに翻弄されているようにも思えるが、もっとキッチリとしたマネージメントをしてあげてほしい。

 人間、引き際は難しい。超一流選手であればなおのこと。ボクは、ボロボロになるまで現役を続けるという『生涯一捕手』野村楽天監督のような生き様には、あまり共感しない。やめるタイミングは自分で決めるしかないが、引き際を見誤って、幾多の栄光がすべて悪印象で塗り替えられてしまわないことを祈る。

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2006年5月25日 (木)

男の顔

 1500打点を達成した清原の 西武時代の映像がテレビで流れていた。日本シリーズで宿敵巨人を破って涙した懐かしいシーン。細面(ほそおもて)で若々しい。巨人への移籍会見のときも、まだ爽やかな青年の風貌だった。それが今では迫力満点のオヤジ面(づら)。いつからあんなふうになったのだろうか。

 男は、わずか数年で急に顔が変わることがある。俳優の渡辺謙も、NHK大河の『独眼流政宗』を演じていた頃は若手の二枚目だった。それがいつ頃からか、眼光鋭いギラギラした男臭さの漂う俳優になった。そして今では、押しも押されぬ演技派のハリウッドスター。

 若い頃と今とどっちの顔がいいかというと、二人とも今の顔のほうがいい。年輪を重ねた風格があって、長年の実績が顔に刻み込まれている。津川雅彦、中尾彬なんかの昔の映画を見ていると今の姿との違いに驚くが、若い頃はどこか頼りなげで青臭い。

 自分の顔は毎日見ているから、あまり変化に気づかない。でも、数十年ぶりに会った友達なんかにはたぶん老けたと思われるだろう。外見の老化は仕方がない。若く見られて喜ぶ人もいると思う。でも、しばらく話をしていて年相応の深みを感じさせないとしたら、一人前の社会人として恥ずかしいことだとボクは思う。

 その昔『男の顔は履歴書』と言ったのは大宅壮一だが、実にうまく言い当てている。では女の顔は何だか知っていますか?弟子の草柳大蔵によると『女の顔は請求書』だそうです。あれが欲しい、これも買いたい、といつも言うからだとか・・・

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2006年3月30日 (木)

安楽死

 富山県の病院で人工呼吸器を取り外された末期患者7人が死亡した問題で、県警が捜査を始めたらしい。

 マスコミは総じて批判的で、この担当外科部長はとんでもない殺人鬼かと思っていたら、今日発売の週刊新潮によれば、逆に患者に慕われるような『あかひげ先生』だったとのこと。10年ほど前に京都の公立病院でも末期ガン患者に筋弛緩剤を投与した事件があったが、たしかこのときの院長も地元では非常に評判のいい医師だった。

 優れた医師ほど悩む『医の倫理』ともいうべき問題かもしれない。でも、もし自分が医師だったらどうするだろうか。

 目の前に死期が迫った患者がいる。現在の医療では回復の見込みはない。耐え難い痛みに苦しんでいて、家族も長期間の看護に疲れ果てている。生命維持装置で生かされているだけの患者。よくもってもあと数日の命。だったら、家族が揃っている今、満足のいく形で最後の時を迎えさせてあげたい。そのボタンを外すだけで、ここにいるみんなが納得する・・ そんなふうに思わないだろうか。

 大学で刑法を勉強していたときに、安楽死とか尊厳死とかいうテーマで議論したことがある。若かったボクは、安楽死は認めるべきではなく、最後の瞬間まで延命治療に努めることが医師たる者の使命だと信じていた。

 しかし、それから30年近く経って、ボクも考え方がだいぶ変わってきた。人生の目的は長く生きることではなく、納得して終焉を迎えることだと思うようになった。いい人生だったと思える形を作ることが、死んでいく本人にとっても残された家族にとっても最善だと思うようになった。自分が患者なら、植物状態になってまで生き続けたいとは思わない。好きなように恥ずかしくない死に方を選ぶ自由を与えてほしい。

 最近では、尊厳死や安楽死について各国の法制化も進んできた。『個人の尊厳』と『生命の重さ』を秤にかけた難しい問題だが、今回の事件もあまり短絡的な結論にならないといいと思っている。

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2006年3月22日 (水)

続々・11年前のこと

 あれから11年、幸いにしてボクは元気に暮らしている。

 その後、被害者支援のためのNPO団体も組織されたが、いまだに社会復帰できない人も多い。手弁当で被害者の心のケアに当たっている有志の方々には、本当に頭が下がる思いだ。毎年秋に、東京で被害者の健康診断が行われていて、定期的なフォローが続けられている。ボクも一度だけ、平衡感覚や視神経の特殊な検査を受けたが、特に異常は見つからなかった。身の幸運を神に感謝するしかない。

 この事件で、ボクの人生観は変わった。その10年前の日航機墜落事件でも、約1週間現地で生死の狭間を覗いてきた。でも、こんなことを言うと叱られるかもしれないが、あれはいわば『他人(ひと)事』だった。ところが、今度は自分が当事者になった。ボクは人の命の儚(はかな)さを思い、生と死が隣り合わせだということを身をもって体感したのである。

 こんな事件に巻き込まれたのは不幸という他ない。しかし、ボクはたまたま運良く一命を取りとめたと考えることにした。そうすると、誰を恨む気も起こらなくなる。ファールフライを野手が落球してくれて助かったバッターのような気持ちで、死に損なった残りの人生でホームランを打ってやろうと気持ちを切り替えることにしたのである。

 そして、その延長線上に現在の自分がいる。11年経った今も、ボクはそのことを忘れてはいない。

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2006年3月21日 (火)

続・11年前のこと

 その病院に来た患者はボクたちが最初だった。問診表に容態を書いて、狭い処置室に通される。二人並んでとりあえず点滴を受けたが、後で聞いたらただの栄養剤だったらしい。病気ではないので、医者としても処置の施しようがなかったのだろう。ボクは点滴の最中にまた嘔吐した。その時点では、ボクたちはサリンという言葉も知らなかったし、隣り合わせのベッドで横になりながらNと二人で暢気な話をしていたように記憶している。しかし、それから30分もしないうちにその小さな病院は患者で膨れ上がり、医者や看護婦がその間を走り回る異様な事態になった。そして、いちばん最初に病院に来てしかも症状が重そうなボクが、救急車で東京医大病院に運ばれることになった。サイレンを鳴らして、ボクを乗せた救急車が新宿の靖国通りを疾走した。

 東京医大病院の救急病棟に到着したら、すぐに衣服を脱がされて、救急処置室に入れられた。カーテンで仕切った狭いスペースに、同じような患者がたくさんいるらしい。そのままベッドに横にされて、点滴と酸素マスクをつけられた。目はほとんど見えず、自力で歩くことは困難だった。警察官が各ベッドを回って、慌しく事情聴取していた。

 ほどなく妻が駆けつけてくれた。真っ青な顔をして、大粒の涙をこぼしていた。ニュースで事件を知って、会社に電話したら要領を得ないのでとにかく病院に飛んできたらしい。来る電車の中で、万一のことも考えて目の前が真っ暗になったという。「冗談じゃない。まだ死ねるか!」とボクは心で叫んでいた。

 そのまま夕方まで病院で横になっていたら、目は元に戻り、吐き気も治まった。点滴が効いたというよりも、吸ったサリンの量が少なかったから助かったのだと思う。医師から帰宅を許されたので、妻とそのままタクシーで家に帰った。妻の実家に預けられていた1歳半の長女も家に戻ってきて、無邪気な笑顔で迎えてくれた。

 その夜、家でゆっくりニュースを見た。そして、初めて事実関係の全貌が分かり、自分が遭遇した事件の恐ろしさを知った。翌日、もう一度病院に行ったときに、待合室で他の患者から聞いた話によると、ボクの斜め向かいに座っていた人は亡くなったそうだ。ボクは新宿御苑前で降りたから助かったが、もう少し先まで乗っていたら間違いなく命を落としていただろう。そう思うと、本当に背筋が寒くなった。(続く)

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2006年3月20日 (月)

11年前のこと

 あの『地下鉄サリン事件』から、11年の歳月が流れた。

 ボクはその朝 8時15分頃、地下鉄丸の内線『赤坂見附駅』のホームで、新宿方面行きの電車を待っていた。

 その日は今年と同じように、飛び石連休の狭間(はざま)の月曜日。ボクはちょうどその3月末で、勤めていた会社を退職して大阪に戻ることになっていた。そして、ボクたち家族は、その前夜まで大阪で退職後の新生活の準備をしていた。月曜は無理せず休んでも良かったのだが、退職前に少しでも仕事の整理をしておきたいという気持ちが結果的には仇(あだ)になった。

 たまたま悪い偶然が重なる。ホームで電車を待っていたら、向こうに同僚のNの姿が見えた。どちらからともなく近づいて、ホームに入ってきた車両に乗った。そのため、お互いいつもとは違う車両に乗ることになってしまう。そして、あろうことかボクたちが乗り込んだドアのすぐ右脇にサリンが入った包みが置かれていたのだが、そんなことに気づくはずもない。

 電車は空いていて、二人並んでシートに腰を下ろした。その包みは、ボクが座ったすぐ右脇の床に置かれていて、Nの視線からはその包みが見えたという。『新宿御苑前』で降りたとき、ボクは自分の身体の異変に気がついた。大きな『新宿御苑前』という駅名表示が、夕暮れ時のように暗くて見にくくなっていた。頭も少しふらついた。あとで聞いたら、サリンのために『縮瞳(しゅくどう)』という症状が起きていたらしいが、そのときは知る由もない。何か脳に異常が起きたのかと思った。Nと二人でモノも言わないで、会社のエレベーターに乗ったが、彼の身体もボクと同じく変調をきたしていたらしい。

 会社の席に着いたが、症状は一層ひどくなってきた。ボクはその日の朝礼当番だったが、とても立って話ができる状態ではない。理由を話してしばらく応接で横になっていたら、Nも同じ症状だという。外ではけたたましいサイレンを鳴らして救急車が行き来しており、ただならぬ気配だった。ボクは少し嘔吐した後、Nと二人で近くの救急病院に行くことにした。(続く)

 

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2006年2月20日 (月)

貫禄勝ち

 昨日のラグビー日本選手権準決勝、東芝府中が学生王者の早大に43-0で圧勝した。学生の中では抜きん出たチームといわれた早大だが、社会人王者との力の差は圧倒的で、計7トライを奪われて為す術(すべ)もなく叩きのめされた。ボクは昔から早大ラグビーが好きで、今回も「もしや」と期待していたが、予想以上に社会人の壁は厚く、蓋を開けてみたら一方的な展開になってしまった。

 若い頃ボクも何度も足を運んだが、秩父宮スタンドの9割は早大ファンで埋め尽くされていたと思う。だいたい社会人ラグビーは地味で、応援は駆り出された社員と関係者しかいない。しかし、そのなかで貫禄勝ちを収めた東芝府中のフィフティーンは立派だと思う。「学生なんかに負けてたまるか!」 その迸(ほとばし)る熱い気持ちが伝わってくる。ボクは早大を応援しながら、結果に関してはこれで良かったと思っていた。選手たちの涙を見ていて、余計にその感を強くした。伸び盛りの若者がベテランにガチンコでぶつかって、一敗地に塗(まみ)れて泣き崩れるという浪花節的構図が、ボクは好きなのかもしれない。

 ちょっと思い出話をしたい。ボクが20代だった昭和50年代に、とんでもなく強い社会人チームがあった。前人未踏の7連覇を成し遂げた『北の鉄人』こと新日鉄釜石である。そしてその7連覇の後半には、学生史上最強といわれた同志社が君臨し、3年連続で1月15日の日本選手権で対戦した。この両者の対決は見ごたえがあったが、なかでも7連覇最後の昭和60年1月15日の日本選手権は、釜石SO松尾の引退試合。後半のノーサイド直前、大声援で声が聞き取れない中、松尾は痛めた足を引きずりながら、大きく右手で8の字を書いて No8をライン参加させるサインプレーを使う。そして No8千田が見事に真ん中に飛び込んでトライ。同志社はこれで万事休す、完全に息の根を止められてしまう。

 実はボクはこの試合をビデオに撮っていて、何度も何度も繰り返し見ている。そして、いまだに日本ラグビー史上最高の試合だと信じている。

 そう思う理由は3つあって、1つは当然ながら試合そのものの中身が濃いということ。2つ目は、釜石チームは高炉の火が消えかけていた地元にとって希望の星で、これに共感した多くのファンによってメインスタンドが赤に染まった熱い試合であったという情緒的な理由。そして3つ目は、この敗戦を糧(かて)にして、同志社の林、大八木、平尾などのプレーヤーたちが、その後に続く神戸製鋼全盛時代の礎を築いたという事実の重み、ちょっと大袈裟にいえば「貫録勝ちの重要性を世に示した」という歴史的意味合いである。

 若い時分に、先輩たちから苦汁を飲まされた悔しさをバネにして、今後の人生で大きく羽ばたいてもらいたい。キミたちにはまだ明日がある。敗れた早大フィフティーンのメンバーの健闘を讃(たた)えつつ、その将来に心からエールを贈りたい。

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2006年1月29日 (日)

マイホームの夢

 この時期は繁忙期なので、終日車で走り回っていることが多い。

 毎週のように通る道もあるが、半年に1回くらいしか行かないところもある。そして、しばらく見ないうちに、駐車場がマンションに変わっていたり、畑がファミレスになっていたりする。少しは景気が上向き加減なのだろうか。

 昨日の夕方、大阪の周辺部で信号待ちをしていたら、工場の跡地がミニ開発の建売住宅に変わっていて、分譲業者の旗がなびいていた。

 ふと、十数年前のことを思い出した。その頃、ボクはサラリーマンで、東京でマイホームを探していた。会社を辞めて大阪に帰るなんて、まだ考えもしなかった頃の話である。ちょうどバブルの絶頂期で、業者も強気だった。

 今でもハッキリ覚えているが、目黒区の八雲という高級住宅地に分譲住宅を見に行ったことがある。何と、土地が坪400万円だった。マッチ箱のような安普請の3階建て住宅が並んでいて、20坪弱の土地つきで 1棟1億円だった。その衝撃は今も忘れない。多分、大阪市内でも環状線の外側あたりなら、今だと3千万円もしない物件だと思う。

 当時の狂乱地価からしたら、その価格設定は間違ってはいない。でも、ボクは明らかにおかしいと思ったし、ボクのバランス感覚が許さなかった。後で電話してきた業者は、「今買わなければ、一生家は持てませんよ。」と妻を脅したという。

 あのとき、業者の口車に乗せられて無理して家を買っていたら、今頃は別な人生だっただろう。でも、そのときの「バカらしい」という気持ちが、退職して大阪に帰る一つの引き金になったことは間違いない。

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2006年1月18日 (水)

阪神大震災

 昨日1月17日は、11年前に阪神大震災が起きた日だった。

 この平成7年は、ボクにとっては人生の大きな転換期となる年だった。ちょうど40歳、大学卒業後17年間勤めた会社を3月末で退職して、親の跡を継いで職業会計人としての道を志すことを決心した。

 震災のあった1月は、まだ東京で暮していた。すでに退職については会社の了解を得ていたが、仕事の整理や後任の人選、お世話になった方々への挨拶やら引越しの準備やらで、慌しい毎日を送っていた。

 ボクは、毎朝、家でNHKニュースを見るのが習慣だったのに、たまたまその日は新聞しか読まなかった。そして、いつものように8時過ぎに会社に着いたら、先に出社していた社員から関西方面と電話連絡がとれないという報告を受けた。いったい何があったのかと思って、急いでテレビをつけた途端、密集した駅前商店街のようなところから煙が上がっている映像が目に飛び込んできた。でも、そのときはまだ、そんな大災害になっていたとは想像もしなかった。

 時間が経つにつれて全貌が分かってきて、神戸で大変な災害が発生したことがようやく理解できた。昼前には、大阪の実家とも連絡がとれて、家族の無事を確認した。その後 大阪に戻ってきてから、多くの方々からこの経験談を聞くことになるが、ボクはその瞬間に関西にいなかったためか、どうも臨場感がない。実際にその場で地震の揺れを体験した人と、倒壊したマンションや折れた阪神高速道路の映像をテレビで見ただけのボクとでは、体に刻み込まれた恐怖感がまったく異なるに違いない。

 この話でいつも思い出すのは、震災の直前に歩いた阪神間の住宅地の佇まいである。ボクは前年末から何度か大阪に来て、賃貸マンションを探していた。そのときは、東京育ちの妻が馴染みやすいように、転勤族の多い阪神間がいいと思っていた。そして、いくつかマンションを物色していて、震災の時には契約直前にまで至っていた。ところが、震災で仲介業者とは連絡も取れなくなった。あとで聞いた話だと、そのマンションも修復不能になったらしい。

 被害に遭われた多くの方々には大変申し訳ないが、ボク個人としては、契約前で良かった、また引越し前で良かった、と単純に考えた。ただし、この震災によって関西の賃貸住宅の需給は悪化し、ボクは家を探すのに大変な苦労をすることになるが、それは被災者の方々の苦しみに比ぶべくもない。

 そしてその2ヵ月後、今度はボク自身が『地下鉄サリン事件』に遭遇して九死に一生を得ることになるが、その話はまたいずれ・・

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2005年12月 2日 (金)

熟年離婚

 『熟年離婚』という連続ドラマを見ていた。

 たまたま見ただけなので、ストーリーや配役はよく分からない。ドラマの中だけに登場人物がカッコ良すぎるが、考えてみたら、自分の回りの友達や知人でも、最近この『熟年離婚』というのがチラホラ。

 結婚して何十年も経って、子育ても終えて、残りの人生を自分の好きなように生きていこうということなのだろうか。昨日、車でラジオを聞いていたら、今まで家庭を顧みずに仕事一筋で頑張ってきた団塊の世代の夫たちがいちばん危ないらしい。そして、これから2、3年のうちに、この年代がいっせいに定年を迎える。彼らは、働き蜂として日本の高度成長の牽引車の役割を果たしてきたが、その分、家庭をないがしろにしてきた。そして、その長年のツケがたたって、定年と同時に妻から三行半(みくだりはん)を突きつけられるという構図らしい。しかもそこに、2007年4月から『年金分割制度』がタイミングよく待ち構えている。

 今の若い夫婦はそうでもないが、団塊世代の夫は夜中まで会社人間、妻は家事や子育てに追われて、なかなか夫婦の接点をもてないことが多かった。そういうすれ違いの中で二人の意思疎通がなくなって、やがては離婚という事態に至る。

 ドラマの最後あたりで、ようやく人間関係が分かってきた。そういえば、この渡哲也と松坂慶子の元夫婦は、ついこの間までNHK大河ドラマ『義経』で、平清盛夫妻を演じていたコンビだったなぁ・・・ そんなことを考えていたら、彼があの独特の低い声で
 「夫婦ってのは、心が通じ合っているものじゃないか」と呟いた。その言葉にジーンと熱いモノを感じた。やっぱりこの人は声がいい。

 先日、トーク番組で、某女性タレントが言っていたのを思い出した。「オトコは、若い間はスタイル、その後はカネ、最後は声なのよ!」  なるほどネ 完敗です・・・

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2005年11月30日 (水)

秋霜烈日

 御堂筋の紅葉が美しい。

 昨日、中ノ島ですれ違った人の背広の襟に、紅色の旭日に菊の白い花弁と金色の葉をあしらったバッジがついていた。これは、『秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)のバッジ』といわれる検察官のバッジで、形が霜と日差しの組合せに似ていることからそう呼ばれている。弁護士バッジなら誰でも知っているが、検察官バッジを見て分かる人は少ないかもしれない。言葉の意味を辞書で調べると、「秋の厳しく冷たい霜と激しく照りつける太陽。転じて権威・志操・刑罰などが非常に厳しく犯しがたいこと」という説明がされている。

 もう20年近く前に亡くなった伊藤栄樹元検事総長に、同名の著書がある。たいていの人には検事総長の名前など縁もないかもしれないが、30年以上も前のロッキード事件で、前首相を逮捕した東京地検特捜部次席検事として、この人の名前は一躍有名になった。当時まだ学生だったボクの進路を決定づけた人でもあった。

 後のダグラスグラマン事件でも、「捜査の要諦は、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉(てっけつ=あばき出すこと)しなければならない」と述べ、「巨悪を逃さず」は当時の流行語になった。

 しかし、最近、検察が世間の耳目を集めることが少ないのは寂しい。自民党旧橋本派の1億円献金事件でも、東京地検は、橋本元首相他の政治資金規正法違反容疑を不起訴処分とした。これに対して検察審査会は、『不起訴不当』の議決をして、「元首相が法律に違反している疑いがあるとすれば、検察官は臆(おく)することなく、もっと掘り下げて捜査すべきだ」と捜査を批判している。 詳しい内容は分からないが、結局は白黒をつけないままにウヤムヤにされたという印象を拭えない。

 検察官は、このバッジの意味を、もう一度胆に命じてほしい。1億円もの授受が「記憶にない」という言葉で済ませられるほど、世間は甘くない。検察官任官希望者が減っているらしいが、前途有為の若者をこの厳しい仕事に惹きつけるために、いちばん手っとり早い方法は、巨悪を剔抉して白日に曝すことである。

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2005年11月19日 (土)

儲かりまっか?

 巷間(こうかん)よく言われる話である。
 大阪で「儲かりまっか?」と聞いて、「ボチボチですわ」という答えが帰ってきたら、かなり儲かっているという意味だから、その言葉を真(ま)にうけてはならない。

 しかし、だからといって大阪商人は信用できないということではない。これは、自分だけ儲かっていると言うと相手の反感を招くので、曖昧にぼやかす商売人の処世術なのだ。だから、本人はウソをつくつもりもない。そして、「ボチボチですわ」と言うのは、マアマアかそれより多少いい程度で、大儲けしている場合は、そうは言わない。

 もうひとつ、京都人の底意地の悪さを示す話として、
 「(家に)上がって、ブブ漬け食べて行っとくれやす。」と勧められて、本気にして上がり込んだら、後で何を言われるか分からない。京都人は、愛想でそう言っているだけで、本音は違うのだ、というのがある。

 この話は、特に関東あたりでは誇張して伝わっていて、ボクも東京で暮していた頃、何人かの同僚からその質問を受けた。しかし、ボク自身は、京都でそんな経験をしたことはない。ボクの知っている京都人は、概ね温厚で、そんな意地の悪い人はいない。ただし、大阪人と違って自己主張が少なく、黙って相手の話を聞いているが、本心は分からないというのが特徴だろうか。

 でも、こういうのもだんだん過去の話になりつつある。交通網の整備やマスメディアの発達によって、狭い日本がより狭くなってきている。地域差というのも薄れてきて、均質化が進んでいる。『大阪人は・・・』という大雑把な決めつけ方ができなくなってきていて、むしろ『同じ大阪人の中でも個人差のほうが大きい』というのが、大阪で暮らしている実感である。

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2005年11月12日 (土)

有馬の湯

 昨夜、有馬温泉に泊まってきた。

 関西にいながら、これまで縁がなくて泊まるのは初めてだった。

 谷合いの温泉町に雨雲が低く垂れ込めていて肌寒く、もう初冬の気配が漂っている。宿のまわりを散歩してみると、格子戸のある昔ながらの軒並みに、有馬特産の竹を用いた民芸品を売る店が並ぶ。五百年近くの歴史を持つ有馬籠や、立てると小さな人形が飛び出す有馬人形筆などを手にすると、温かなぬくもりが伝わってくる。

 宿に戻って温泉に入ってみた。湯の特徴は有名な赤と白。含鉄強塩泉でトロリとした湯触りの金泉と、サラサラとしたラジウム泉、炭酸泉の銀泉。 交互につかってさらに飲湯をすれば、万病に効能があるという。

 風呂から上がったら知人との宴会。料理やサービスも至れり尽くせりで、『関西の奥座敷』としての伝統と風格を感じる。泊まったのは古くから有名な旅館なので、建物は決して新しくはないはずだが、設備の手入れが行き届いていることに感心した。毎日丁寧にメンテナンスされたタクシーは、20万キロ走るという。われわれ人間も、若い間はともかく、年を重ねてくると心や身体に充分な栄養をとっているかどうかで大きな差が出てくる。そして、そのための投資や時間を惜しむと、何年、何十年先に手痛いシッペ返しを食うことになりかねない。日々の生活に流されることなく、自分自身のために計画的にお金や手間ヒマをかけることも大切かもしれない。でも、それを継続していくことは、なかなか難しい。

 さて、今日から何か始めてみようか。錆びかけた頭にも、たまには油を注さないと・・・ 酔い覚ましの朝湯につかりながら、今朝そんなことを考えていた。

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2005年11月 8日 (火)

人生の岐路

 これまでの人生で、何度か大きな岐路を経験した。

 岐路というのは、その後の人生の大きな分かれ目だが、同窓会などで旧友たちと話していて、ふと思うことがある。昔は、この連中と同じ釜の飯を食っていた。それから何十年も経って、今ではまったく違う人生。お互いあの時に戻ってやり直すことはできないが、もし逆の道を選んでいたら、自分が彼らの人生を歩んでいたかもしれない。でも、やっぱり自分の人生のほうが良かっただろうか・・・ 仲間の疲れた横顔を見ながら、ボンヤリとそんなことを考える。

 最初の岐路は高2の冬で、文系か理系かを決めなければならなかった。迷ったあげくに文系を選んだが、もし、あのとき理系に進んでいたら、その後の人生はすっかり変わっていただろう。ボク以外のクラブの友達は、全員が理系に進んで、そのうち4人が医者になった。高2まで同じように山登りをしていた仲間が、ちょっとしたキッカケで大きくその後の方向を変えていく。人生というのは、そんなものかもしれない。

 2度目は、大学5回生の時だった。留年して司法試験に再挑戦したものの夢破れ、さらに留年を続けるか就職するかで、非常に迷った。この先勉強を続けても合格できる保証はないし、そのまま埋もれていった先輩たちをたくさん知っていた。でも、志半ばで変節して後悔しないだろうか。さんざん迷った末に就職することにしたが、上京してからも、これが本当に正しい選択だったのかと自問する日々が続く。まだ勉強している仲間のことを思うと気持ちは複雑で、30歳を過ぎた友人の吉報にも耳を覆(おお)っていた。でも、それから30年近く経った今、あの選択は正しかったと冷静に思えるようになった。20代前半で広い社会に飛び出して得たものは大きく、その後の人生の大きな糧となっている。

 そして3度目は、10年前にその会社を辞めた時。妻子をかかえて、よく思い切った決断ができたものだと思うが、その時は、その大変さがあまりよく理解できていなかった。受験生活を始めてすぐに大きな壁にぶち当たるが、今さら後戻りもできないので、もう頑張るしかなかった。そして、雌伏数年の後、今のボクがある。

 これから先は、平坦な人生かもしれないし、まだ大きな岐路が待ち受けているかもしれない。しかし、常に自分が進んできた道が最善だったと思えるような人生を送りたいものだと、今思っている。

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2005年10月18日 (火)

「シニア」を攻めろ!

 最近、日本人は何でも英語やカタカナで言いたがる癖がある。漢字で書くよりもスマートで、語感が和らぐのだろうか。でも、それでかえって分かりにくくなることもある。最近よく使われる「シニア」とか「シルバー」という言葉も、何となく曖昧だ。

 もともとの意味は別として、「シニア」というのは、ちょうど定年退職して第二の人生に差しかかろうというあたりの年代のことらしい。「シルバー」というと、もう少し上の70歳くらいからだろうか。

 先日、ある経済評論家の講演を聞いていたら、これからの高齢化社会で、消費市場での主役は、このシニアとシルバーだという。しかも、あと2、3年したら「団塊の世代」が定年を迎え、時間も懐も余裕のあるシニアが一気に増える。いっぽうの現役世代は、所得が伸びない中で税金や社会保険料の高負担にあえぎ、消費をリードできないのが寂しいところだ。

 でも、この元気なシニアというのは案外扱いにくく、自分を年寄りだとは思っていない。その証拠に、大半の人がシニア向け商品を買ったことがなく、シニア扱いされるのが何より嫌いなのだ。

 このシニアたちに集中した資産を若い世代に移転して有効活用させるために、税金の世界では、3年前に、相続人に対して一定限度まで無税での贈与を認める制度を創設した。しかし、現実にはシニアたちが資産を抱え込んだままで、思うように財産移転は進んでいない。こんな自分の息子や娘にさえ財産を譲らないシニアたちに的を絞った商品開発は、なかなか難しく、開発担当者たちの苦労は続く。

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2005年10月12日 (水)

「定年」って・・・

 「定年」って、何となく悲しい響きだぁ・・・

 先日、同い年の数人と話していたら、この話題になった。ボクは気ままな自営業だから、あまり意識することもないが、サラリーマンには定年がある。会社によって違うが、今だとだいたい60歳前後だろうか。そして、50歳を過ぎると、そろそろこの定年というものを意識し始めるらしい。

 ボクが会社を辞めたのは、今から10年少し前、ちょうど40歳の時だった。ようやく中堅社員の仲間入りを果たしたくらいの年格好で、普通だとサラリーマン人生もまだこれからという年齢である。だからその頃は、定年後の人生なんて考えたこともなかった。しかし、それから10年経って、会社人生も残り一桁になると、いきなりこの定年が現実味を帯びてくるものらしい。

 50歳になったら、どこの組織でも”人の選別”は終わっている。ごく一握りの人間だけが組織を引っ張っていて、残りの人間はその組織にしがみついている。しかも、かっての年功序列や終身雇用制度はだんだん影をひそめてきて、いきなり役職を外されたり、大幅に給料を減らされたりもする。それでも肩身の狭い思いをして定年まで頑張るか、多少の割増退職金を貰って組織を飛び出すかは、プライドと算盤勘定を秤にかけての最後の思案どころである。

 幸か不幸か、今のボクには定年はない。だから、辞めるタイミングは自分で決めるしかない。できれば、老後の心配のない程度の蓄えをしたうえで、半分働きながら、半分は趣味の世界に生きるというセミリタイアー生活が理想だろう。欧米人のように、1年の半分を海外のリゾート地で暮らすなんていう晩年を送ってみたいとも思う。

 でも、結局はそうはならないだろう。これは自分で確信めいたものがある。人生の幕を閉じるまで、往生際悪くバタバタと動き回っているような気がする。「自分が必要とされている」という幻想の呪縛に捉われて、自分のための人生を楽しめないというあたりは、典型的な日本人かも知れない。

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2005年9月22日 (木)

白秋真っ只中

 「青春っていくつぐらい?」と、娘に突然聞かれた。
 「ウン、50歳くらいかな・・・」
 「そんなワケないでしょ!」と一蹴される。

 手元の辞書を引いたら、青春とは「夢・野心に満ち、疲れを知らぬ若い時代」とあって、特に年齢は書いていなかった。でも、そんなに野心もないし、最近疲れやすくなってきたから、青春というには少しおこがましいかもしれない。そもそもこの言葉は、中国の五行説に基づく 青春、朱夏、白秋、玄冬のひとつである。古代中国の世界観では、万物は五行(木・火・土・金・水)によって構成されていて、それを季節と色で表せば、木は春で青、火は夏で赤(朱)、金は秋で白、水は冬で黒(玄)ということになるらしい。

 これを人生でいうと、
  青春・・・誕生~10代・・・希望に満ちた人生のスタート
  朱夏・・・20~30代・・・燃え盛る人生の最盛期
  白秋・・・40~50代・・・ゆったりと楽しむ成熟期
  玄冬・・・60代~・・・実りを享受する晩年
 ということになるようだ。

 この中では、「青春」ばかりがもてはやされているが、五木寛之の小説で、「朱夏の女たち」というのもあった。30代のそれなりの人生経験を積んだ大人の女たちの織りなす物語である。それでいくと、50代のわれわれは「白秋の男たち」ということになるのだが、何だか白く乾いた干物みたいで少し物悲しい。

 「青春とは心の若さである」というサムエル・ウルマンの有名な詩集がある。でも、英語には「青春」という言葉はなく、ウルマンの原詩では ”youth” (若さ)という言葉が使われている。彼が言いたいのは、「人は心の持ちようによって、いくつになっても若々しくいることができる」ということだ。そういう意味では、50歳だろうが”青春真っ只中”、いや”白秋真っ只中”である。

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2005年9月18日 (日)

シンプルライフ

 昔から、モノに囲まれて暮らすのがあまり好きでない。なるだけ、自分の回りのモノは必要最小限のほうがいいと思っている。だから、必要なモノ以外はあまり買わない。しかし、「ケチ」というのともまた違う。欲しいけど我慢するのではなく、欲しくならないから買わないだけなのだ。逆に、要らないモノを捨てるのは大好きで、そのスペースが空いたらせいせいする。モノに対する執着があまりないということだろうか・・・ 人に言わせると、こういうのは「金離れ」ならぬ「モノ離れがいい」と言うらしい。

 海外旅行に行くと、やたらに買い物をする人がいる。女性に多いが、ボクの知っている男たちもショッピング好きな人が多い。免税店などでここぞとばかりにブランド物を買い漁って、ほとんど買い物をしないボクを不思議そうに見ている。

 仕事の書類や資料でも、必要になるかも知れないと思って何でも捨てずにとっておく人がいるが、ボクはあまりそれはしない。残しておくと際限がなくなるので、用が済めば、基本的に廃棄する。そうしないと、机やキャビネが、それこそ書類で溢れかえる。文筆家などで、仕事場に本や原稿が積み上げられて、足の踏み場もないというような人がいる。それでもいちおう自分なりに整理がついていて、勝手に動かすと怒るらしい。ボクはまったく逆で、机の上には何も置かないし、何かあったらまず片づけてからでないと仕事ができない。あまり捨てるから、年に一、二度は、あの資料残しておけばよかったなと反省することがある。それでも、まあ何とかここまで大過なくやってこれたから、これからも考え方は変わらないだろう。

 「身軽」「シンプルライフ」というのが身上だったが、年を重ねるにつれて、だんだん身にまとわりつくものが増えてくる。たまの休日にそれを一つずつ片づけるのが、自分のストレス解消法である。

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2005年9月10日 (土)

浜松にて

 大学の先輩に誘われて、浜松で泊まってゴルフをしてきた。

 ほぼ1年ぶりのゴルフで、スコアは散々だったが、楽しいゴルフだった。メンバーは、東京で渉外弁護士をしているTさん、大手監査法人で公認会計士をしているFさんと、ボクの三人である。この二人とは、東京時代にゼミのOB会で知り合って、もう二十年以上のおつきあいになる。Tさんは学生時代に司法試験に合格したエリート弁護士、Fさんは某都市銀行を退職して国家試験を目ざした脱サラ組で、なぜかこの三人は気が合って、東京にいた頃も、年に一、二回は、一緒に飲んだり、ゴルフをしたりしていた。その頃、Fさんはまだ受験勉強中で、Tさんとボクが勉強の気晴らしによく誘い出したものだった。

 ボクが十年前に会社を辞める決心をしたとき、唯一反対してくれたのは、公認会計士になったばかりのFさんだった。彼は、家族を抱えて国家試験に挑むことの難しさを語った。そして、今の安定した仕事を捨てることの愚かさをボクに説いた。しかし、ボクはもう後戻りはできなかった。

 ボクが初めてFさんの言葉の意味が分かったのは、大阪で受験生活を始めてしばらく経ってからのことである。それから数年、苦労してようやく最終合格を果たしたときに、Fさんから電話がかかってきた。「良かったな!」と懐かしい声が響く。彼は、心配して毎年官報の合格発表を見てくれていたのだった。ボクは、電話口で目頭が熱くなるのを感じた。

 その翌春、二人はボクを伊豆に招いて、合格祝いをしてくれた。ゴルフの前日に三島駅に集合して、三人で駅近くの居酒屋に入った。旬の桜海老の掻き揚げを頬張りながらジョッキを重ねつつ、ボクは二人の温かさに感謝していた。

 それからは毎年、東京と大阪の間で一泊ゴルフをするようになった。そして、ふだんはゴルフをしないボクも、この予定だけは最優先させている。毎年 仕事が広がって新しいおつきあいが増えていくのは嬉しいことだが、辛かった時代の苦労を理解してくれている知人の存在は何物にも代えがたいと思っている。

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2005年9月 2日 (金)

青春の蹉跌

 学生時代、検事志望だった。

 1976年2月、ロッキード事件が起きた。前総理大臣が受託収賄罪で逮捕されるという前代未聞の事件で、ボクたち浮世離れした大学生にも大きな衝撃だった。当時、すでに法曹志望は固めていたものの、急に、検察官という職業が社会正義の実現者に見えてきた。まだまだ青い世間知らずの学生には、「これしかない!」と思えた。ゼミは刑事訴訟法を選び、それからほぼ2年間は、下宿(自宅)と大学を往復するだけの毎日となる。来る日も来る日も難解な分厚い法律書や六法全書とのにらめっこの日々・・・ これまでの人生で、後にも先にもこんなに勉強したことはない。

 そして、4回生では択一式試験で不合格。留年して再挑戦したものの、今度は論文式試験で夢を絶たれた。親は気のすむようにしろと言ってくれたが、留年を重ねても合格する保証はなく、悩んだ末、民間企業に就職することにした。当然のように留年を選んでいた周囲の友達からは、「まさかお前が就職するとはなぁ」と言われながら、敵前逃亡するようにボクは東京に去っていく。本当に後悔しないのかと自問しながら、内心では後ろ髪を引かれる思いだった。

 あれから約三十年、いまだに「検察官」という言葉を聞くと、少し青臭い郷愁が蘇る。図書館の匂いや大学生協のカレーライスの味、青春の一時代に懸命にめざして、勝ち取れなかったものの残像が頭をよぎる。

 その後、紆余曲折(うよきょくせつ)はあったものの、結局は会社を飛び出して、気ままな自由業に行き着いた。あの時、あきらめずに検察官をめざして頑張っていたら、今頃どこでどうしていただろう。でも、自分には組織人よりも枠にはまらない自由な仕事のほうが向いていたかもしれない。50歳を過ぎた今、そんなことを考えている。

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2005年8月10日 (水)

牡牛座の男

 イヌの散歩は朝夕2回、ほとんど妻に任せきりだが、たまに気が向いたら、酔い覚ましを兼ねて夜の散歩に出かける。30分ほど近所をひと回りすると、さすがにこの季節、夜でもジットリと汗ばむ。ちょっと公園のベンチに腰を下ろして、大空の星を見上げる。とはいっても大阪の郊外、そんなには星の姿も見えず、今ならせいぜい夏の大三角形くらいだろうか。

 昔から好きな星がある。「スバル」である。残念ながら夏は見えない。このスバルというのは、牡牛(おうし)座のプレアデス星団のことで、多数の星が集まったもの。大きな星が6個あるように見えるので、六連星(むつらぼし)ともいわれている。

 ボクは、4月生まれの牡牛座。なぜ、誕生月の4月に牡牛座が見えないのか、かねがね不思議に思っていたが、この間読んだ本によると、誕生星座というのは元々はその人が生まれた時期に「太陽が存在している星座」で、昼間の星座ということらしい。だから、牡牛座は、オリオン座やカシオペア座と同じく冬の星座である。

 その「スバル」という名前だが、これが日本語だということをご存知だろうか。子供の頃、「日本語の名前がついた自動車は何でしょう?」というクイズがあった。答えは「スバル」である。今では谷村新二の「昴(すばる)」のほうがすっかり有名になってしまったが、もとの字は「統(す)ばる」。今はほとんど使わない言葉だが、統一するという意味の「統(す)べる」という言葉があって、「統ばる」はその自動詞。つまり、自分が中心となってまとまった状態にすることをいう。スバルは整然とした立派な星団なので、昔の日本人は星の王様だとでも思ったのだろうか。

 そういえば、清少納言の枕草子にも、「星はすばる、ひこぼし、明星、夕つつ・・・」とある。今から千年前に清少納言が眺めていたスバルを、今ボクが見ている。そして、その距離は何億光年・・・  悠久な宇宙に思いを致せば、ボクたちの日々の営みは実にちっぽけなものに思えてしまう。

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