2008年7月13日 (日)

偲ぶ会

 昨日、4月に亡くなった『Sさんを偲ぶ会』に出席してきた。

 昔の同僚や仲間など50数人が集まり、夫人を囲んで賑やかな会となった。仙台や岡山からなど遠来の参加者もあり、自分としても長らくご無沙汰している人たちと久々に旧交を温めることができた。

 席を移動しながら注しつ注されつ、昔話に花が咲く。そして宴が盛り上がった頃合いを見計らって、いよいよメーンイベント。

 あらかじめ幹事が集めておいた懐かしい写真をスライドにして、次々と前方スクリーンに映し出す。『総務課時代』『新ビルチーム』…テーマごとに、ゆかりの深い人が前に出てきて交替でその思い出を語る。

 だいぶアルコールが入った客席からは、
 「誰?あの人…あんなに若かったの?」
 と笑いの渦が広がる。
 「この写真はいったいどこ?」
 画面に見入りながら、懐かしさに声が弾ける。天国から故人がみんなをつないでいる。

 こういう趣向の会は初めてだが、なかなかいいものだと思った。

 タイミングも絶妙。3ヶ月も経てば悲しみも少しは癒えて、落ち着いて思い出話ができる。共通の知人が集まって故人を偲ぶには、ほどよい頃合い。

 2時から5時。昼間の酒がよく効いた。二次会も準備されていたが、翌日の予定があったので、後ろ髪を引かれる思いで会場の赤坂を後にした。

 帰りの新幹線で、Sさんの人徳の大きさを思う。64歳。短かったけれど、大きな軌跡を残した人生だった。

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2008年5月30日 (金)

集団愚行

 たまには、独りになるのもいいものだ。

 知らない街の路地裏をあてもなく歩いてみたり、波止場で船を眺めたり、誰もいない美術館の喫茶室でコーヒーを飲んだりするのもいい。開店直後の静かなカウンターで一杯飲(や)って、さっと引き上げるのも悪くない。頭の中が真っ白になってリフレッシュできるし、平素とは違った環境で新しい発想が湧いてくることもある。

 人間という生き物は、数多くの他人との関わりの中で日々の営みを続けている。たまにはその浮世の鎖を解きほぐして、五体を緩めてやるのがいい。満員電車で擦れ合って色あせた珠玉も、ひとつずつ外して丁寧に磨けば、また輝きを取り戻すものだ。

 いつも独りだと寂しいが、たまには独りも悪くない。動物、特に人間は集団で行動する場合、単独行動のときに比べて確実に判断力や注意力が低下する。万事が他人任せになって、全体責任は誰の責任でもなくなってしまう。

 職場で団体旅行でもすればよく分かる。幹事以外はただついていくだけで、集団でカプセルに入ったまま動いている。仲間との雑談に夢中になって、どこに行ったのか、何を食べたのかさえ覚えていないことも珍しくない。

 己の技や力を試すには、独りで他流試合に臨むのがいちばん。ボクは高校時代に山岳部にいたが、登山の世界では単独行ができるようになれば一人前といわれる。自分の体力や技量からコースや日程を決めて、天候や疲労具合を考えて、休憩、炊事、野営などを判断していく。それがグループだとリーダー任せになって、ひどいのになると地図さえ読まない。

 心理学に集団愚行という言葉があるが、自分も含めて人間は集団に安住するときがいちばん愚かだ。「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」というのは本質をうまく言い当てている。

 いくら親しい人でも、いつも一緒にいると息が詰まってしまう。たまには独りになって、自分をリセットすることも大切。人生とはそんなくり返しである。

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2008年5月17日 (土)

男の背中

 昨夜、会合の後、10人ほどで近くのスナックに流れた。

 少し年上の知人が常連の店。その彼が他のメンバーから離れてひとりでカウンターで飲んでいる。ほどなく若い男性が来て並んで座った。他の人に聞いたら、彼の息子だという。

 ちょっと家庭環境が複雑で、先妻との子供らしい。

 豪放磊落な人だが、男手ひとつで2人の男の子を育てたという話を聞いたことがある。毎朝早起きして、子供たちの弁当を作っていたとか。朝はいつも具沢山の味噌汁だったと、照れくさそうに言い訳していたのを思い出した。

 メンバーのカラオケを聴きながら、それとなくカウンター席に目をやる。適当な距離を取りながら、分厚い背中と華奢な背中が並んでいる。ときどき厚い方の胸板が揺れるのは、酔っているからかもしれない。

 母親がいなかった分だけ、ふつうの親父と息子以上の固い絆で結ばれていたはずだ。再婚するときに、2人の息子たちにどう説明したのだろう。そして彼らは、どう反応したのだろう。

 それから幾星霜。その親子がカウンターに並んで酒を酌み交わしている。でも多くは語らない。おそらく語らずとも分かるのだろう。長い時間のヒダの中に、すべての感情は解けて消えていく。

 ウチには息子はいないけど、こんな男同士もいいものだ。ちょっとうらやましい。

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2008年4月19日 (土)

アンチエイジング

 先日のSさんの通夜の席で、思いがけず懐かしい昔の同僚や先輩、取引先の人たちと会った。

 Sさんが引き合わせてくれたというしかない。

 会社を辞めてもう13年になる。退職時に挨拶回りをしたとき、ボクは一部の親しい人たちを除いて「もうこの人たちには二度と会うことがないだろう」と感じていた。東京を離れるし、これからは仕事でも縁がない。よほどのことがない限り、もう接点もないだろう。そう思いながら、ひとりひとりの顔をまぶたに焼きつけていた。

 ところが、その人たちと思いがけず再会を果たすことになった。顔かたちや体型の変化に十数年の歳月の重みを感じるが、間違いなく本人の話し方であり仕種である。たぶん、向こうも同じことを思っていることだろう。

 言うなれば浦島太郎。いつかどこかでこんな経験をしたような気がしたが、どうしても思い出せない。それが帰りの中央線で映画の広告が目に入って、ふと気がついた。

  そうだ。映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」。作品中に30年前の回想シーンと今の映像とが交互に流れる場面がある。その俳優たちの老けぶりが見事だった。もちろん同じ人が演じているのだが、髪型やら小ジワやたるみ(特殊メイク?)で巧みに加齢を演出している。

 亡くなったSさんは、もうこれで年をとらない。生きているボクたちはこれからどんどん老けていって、やがてはSさんの年を追い抜いてしまうかもしれない。いつかあの世で再会するときに、あんまりみっともない老け姿で誰だか分からないようでも困る。そのために、しっかりアンチエイジングに励まなければ…

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2008年4月10日 (木)

不惑

 金本が、2千本安打を前にして足踏みしている。

 スタートからの絶好調がウソのように、バットから快音が消えた。これだけマスコミやファンに騒がれると、プレッシャーも相当のものだろう。そっとしておいてあげたらと思うが、人気稼業はつらい。

 その金本が40歳になった。引退を表明した桑田、晴れてメジャーに復帰した野茂も同い年。そのせいか最近はスポーツ紙でも、不惑という文字をよく見かける。

 「四十にして惑わず」とは論語の言葉で、孔子の時代なら半ば老境に差しかかった年代。史記には「退きて詩書礼楽を修め、弟子いよいよ多く遠方より至り…」とある。

 スポーツ選手はともかく、今どきの40歳は現役バリバリ。13年前、ボクはその40歳で会社を辞めた。不惑にして大いに迷って、人生をリセットしたのだ。だからこの「四十にして惑わず」という言葉には格別の思いがある。

 今の世の中、人間を惑わす情報が氾濫している。そのなかで、自分に必要な情報だけを取捨選択できる能力を身につけることが大切だと思う。ビュッフェで片っ端から皿に載せて早々と満腹になるのではなく、自分の口に合う料理だけを選り分ける目を磨かねばならない。

 「不惑」という言葉を現代風に解釈すると、40歳くらいまでには明確な自分のモノサシを作れということ。いい年をして、いつまでも他人(ひと)の意見に右往左往しているようでは先が思いやられる。カブスに移籍した福留がコメントしていたように「どこに行っても自分のストライクゾーンは変わらない」というのは真理である。

 どうやら今日の甲子園のゲームは中止らしい。この雨で金本の迷いが吹っ切れるかどうか…

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2008年4月 9日 (水)

縁を生かす

 最近聞いた、ある少年と担任の先生の心温まる話。

 その先生が5年生の担任になったとき、服装が不潔でだらしなくて、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入してしまう。

 ある時、その少年の1年生からの記録が目に止まった。「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。何かの間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。

 2年生になると、
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。
 3年生では、
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」
 3年生の後半の記録には、
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」
 4年生になると、
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」とある。
先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみの中を生き抜いている生身の人間として、自分の前に立ち現れてきたのだ。

 先生にとって目を開かれた瞬間だった。放課後、先生は少年に声をかける。
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からないところは教えてあげるから」
 少年は初めて笑顔を見せた。それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。

 クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけて、夕暮れに少年の家を訪ねた。

 雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。「ああ、お母さんの匂い!きょうは素敵なクリスマスだ」

 6年生では、先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、先生に少年から1枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして、いままで出会った中でいちばん素晴らしい先生でした」

 それから6年。またカードが届いた。
「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができました」

 10年を経て、またカードが届いた。
 そこには先生と出会えたことへの感謝と、父親に叩かれた体験があるから患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。
「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままダメになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になったボクにとって最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です」

 そして1年。届いたカードは結婚式の招待状だった。
そしてそこには「母の席に座ってください」と、書き添えられていた。

 たった1年間の担任の先生との縁。その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠り所として、それからの人生を生きた。ここにこの少年の素晴らしさがある。

 人は誰でも無数の縁の中で生きている。無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。

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2008年3月17日 (月)

旅立ち

 同級生のお母さんが亡くなった。

 小学校時代の友達で、実家もすぐ近く。小さい頃からよく行き来していて、お昼をごちそうになったことも再々ならず。

 彼の家は金物屋。大店(おおだな)を構えて、田舎から集団就職してきたイガグリ頭の住み込み店員(近所では『○○さんところのボンさん』と呼ばれていた)がたくさんいた。なかには手先の器用な職人もいて、子供の模型など簡単に直してくれた。

 裏方では、お手伝いさんがいつもボンさんたちの食事を作っていた。子供心にも彼らの旺盛な食欲に驚いたものだ。当時は『番頭はんと丁稚どん』というテレビ番組があって、ボクの頭の中ではそのイメージと重なっている。

 うちの近所で最初にエアコンが入った家でもある。ルームクーラー・自家用車・カラーテレビを総称して”3C”。庶民の生活も急に豊かになり始めたが、まだまだ高嶺の花だった。

 さまざまな記憶を呼び起こしながら、今日の告別式に参列してきた。演出が素晴らしかった。色とりどりの花と多彩なスナップ写真で飾られた式場。写真の表情は豊かで、こぼれるような笑顔が印象的。

 長男であるボクの同級生が、祭壇に向かって『オーソレミヨ』を熱唱した。D大学のグリークラブで鍛え上げただけあって、声量は一級品。これまでいろいろな葬儀に出席したが、こんな演出は初めて見た。

 歌が大好きだったらしい。最後はコーラスクラブの合唱の中を粛々と送り出されていった。手を合わせて目を瞑っていたら、後ろでゴマ塩頭になったボンさんたちが涙を拭っていた。

 『別れ』ではなく『旅立ち』。いい言葉である。合掌

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2008年3月10日 (月)

温かい雨

 ふだんの生活の中では、自分の寿命を意識することなどあまりない。

 健康な人は、自分の命の大切さを分かっていない。しかし自分や身近な人が重い病気になると、命とか寿命とかいうものと真剣に向き合うことになる。

 ここ1年ほどはどういう巡り合わせか、まわりで健康を害した人が多く、見舞いに行くことが多かった。

 Tさんはある金融機関の支店長だった人。ご両親を看(み)とった後、定年を待たずに早期退職して、大和川の近くで大阪の伝統野菜作りをしていた。お子さんたちもそれぞれ独立して、昨春息子さん夫婦との2世帯住宅に建替えたばかり。還暦を迎えて、これから孫の世話でもしながら奥さんと優雅な晩年をおくるはずだった。

 ところが『好事魔多し』。Tさんを病魔が襲う。最近会うたびに痩せてきたのが気になっていたが、年末にすい臓ガンが見つかった。抗ガン剤治療を続けていて、病状は予断を許さない。

 つい最近ご本人と会ったが、不安などおくびにも出さない。心の中までは覗けないものの、診断書を見せながら笑顔を絶やさない。気丈な人だと感心した。

 もしも自分がガンの宣告を受けたらどうだろうか。目の前が真っ暗になって投げやりになるかもしれないし、絶望のあまり家族に当り散らすかもしれない。

 燃え尽きる最期の瞬間まで悔いのないように生きたい。たとえあと1年と言われても、前向きにその余命を楽しみたい。言うのはたやすいが、これを実行するのは容易ではない。

 生体腎移植を受けたOさん、脳出血でリハビリ中のTさん、心不全で入退院をくり返しているNさん… 何とか頑張ってほしい。

 今日は朝から温かい雨。もう春は近い。

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2008年2月 5日 (火)

バラのトゲ

 いつだったか、ある地方紙のコラムで読んだ話。

 モノの見方の喩え話として、バラをどう見るか。「美しいのにトゲがある」と否定的にとらえるのか、あるいは「トゲがあるのに美しい花をつける」と肯定的に見るのか。とかく人間は、他人(ひと)の悪いところばかりに目がいき、いいところは意識して探さないと見つけられない、という。

 どんな人にも、長所があるし短所もある。いいところを見習う。逆に悪いところは目をつぶって、自分自身の反面教師にする。そうすれば腹も立たないはず。

 でもこれは意識していても難しいことだ。太陽が旅人の外套を脱がした寓話のように、褒める・ねぎらう・感謝すると相手は変わる。

 いくつになっても、人間というのは誉められるとうれしい。今日もある人に、ちょっとしたことで感謝していただいた。そのときの笑顔がとても素敵だった。自分でも単純だとあきれるが、この人には出来る限りのことをしてあげたいと思った。その人はごく自然にそういう言い方ができる人なのだが、身に備わった人徳だと思う。

 若い頃、部下を気分よく働かせてくれる上司がいた。口は悪くても心は熱い。その人の命令なら、多少の無理も厭(いと)わないで頑張れる。自分には厳しく、他人には思いやりの心。これが人の上に立つための大切な資質だと思う。

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2008年1月17日 (木)

Bar.Sato

 事務所からほど遠くない静かな住宅街の中、こんなところにと思うような場所に1軒のバーがある。数年前にどこかの飲み会の流れで、誰かに誘われて行ったのがキッカケ。その後も何度か立ち寄った。

 キタやミナミの喧騒から離れて、ひとりでゆったりと時間を過ごすのにはちょうどいい。仕事で疲れたときなど、頭の中をクールダウンしながら、1、2杯でサッと席を立つのが大人の飲み方。

 いつだったかその店で数人で飲んでいたら、知人の女性がひとりで入ってきた。もう日付も変わろうとする時間である。スッピンで髪がナマ乾き。たしか自宅がこのあたりだった。子供もすでに独立していて、時間もお金も好きに使える自由人。風呂上りに一杯飲(や)りに来たのだろうか。こういうときは会釈だけで、お互い余計な言葉は無用。もちろん一緒に飲もうと誘う雰囲気でもない。

 そのときボクは、彼女がそういう場所と時間を持っていることををたまらなくうらやましく思った。家から歩いていける距離の心地よい空間。これは酒飲みの理想である。

 子供の頃、『だいこんの花』というドラマがあった。

 妻に先立たれた森繁久彌が主役で、息子役の竹脇無我との愛情や絆をテーマにした向田邦子の出世作。まわりを芸達者の脇役たちで固めて、笑いとペーソスにあふれた楽しいホームコメディだった。

 このなかで、亡くなった大坂志郎と加藤治子がやっている小料理屋が毎回出てくる。森繁はこの店の常連で、いつも遅くまでカウンターでとぐろを巻いている。そして最後は飲みつぶれて、店から家に電話がかかってくる。迎えに来るのは息子か息子の嫁。

 子供だったボクは、どうして大人はひとりで飲みに行くのかと不思議に思った。しかし、この年になるとその気持ちがよく分かる。仕事場と家庭との間には微妙な温度差があって、これを上手に橋渡ししてくれる場所や時間が必要なときがあるのだ。

 割烹というには敷居が高いが居酒屋ほど下卑ておらず、小料理屋という呼び名が相応しいこじんまりした店。ちょっと気の利いた肴と酒があれば充分。カウンターの向こうには、あまり饒舌でない店主がいて、一見客は少ない。ましてや団体客はお断り。欲を言えば、風呂上りに散歩がてらに行ける距離… 理想かな…

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2008年1月 8日 (火)

訃報

 昨夜、風呂からあがってメールを開いたら、友達の訃報が入っていた。

 高校・大学と同級生だったM。

 隣合わせの中学から同じ高校に入ったから、実家も近い。入学した高校1年で同じクラス。50音順の出席番号も並んでいて、話す機会も多かった。高校に入って1ヶ月も経たない頃、ボクが虫垂炎で入院したときに、彼は学校の帰りに見舞いに来てくれた。まだ髪が伸びきらないイガグリ頭の向こうに、窓の外には大阪城が見えていた。

 たまたま大学も学部も同じだった。そして最後に会ったのは、ボクが就職を決めた後。通い慣れた大学の生協食堂で、彼はいつものGパンと下駄履き姿だった。
「いろいろ考えたけど、就職することにしたよ…」
「そうか、オレはもう少し大学でゆっくりする。大学院でも行こうかと思ってる。」
「頑張れよ…」

 そんなやりとりだったと思う。その後はまったく音信不通。頭は良くて人柄もいい。でも鷹揚で利には疎い。およそ民間企業には向かないタイプで、研究職あたりがいいかもしれないと感じた。

 そのMの消息を知ったのは、つい3年ほど前のこと。たまたま昔の何人かの仲間の名前をインターネット検索していたら、引っかかってきた。

 愛媛大学法文学部教授…こんなところにいた。地方大学で教鞭をとりながら、好きな研究を続けていたのだ。松山という未知の土地が漠然と頭に浮かぶ。坊ちゃんと道後温泉くらいしか知らないが、きっと風光明媚で人の心も温かいのだろう。

 大阪から会いに行くには少し遠いが、いつか急に訪れて驚かせてやろう。美味い魚と地酒でたっぷりお互いの空白の人生を語ろう。また先の楽しみができた。そう思っていたら、気の早い彼は一足先にはるか彼方に旅立ってしまったのである。

 彼の残した業績も、教えた学生たちも、愛したご家族も、最期の様子も、ボクは何も知らない。ただ記憶にあるのはイガグリ頭と、自転車でキャンパスから飄然と消えていった後ろ姿だけ。

 オマエ!ちょっと早すぎるぞ!先に行って独りで飲んでろ!オレはもう少しゆっくりしていくから。。。

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2007年12月17日 (月)

逃げたらあかん

 もしイヌにガブっと手を噛まれたとしたら、その瞬間どうしたらいいか…

 ふつうの人は逃げようとして噛まれた手を引く。ところが引くと、肉食動物の歯は余計に獲物に深く食い込むようにできている。つまり傷口が深くなる。だからこういうときは、逆にノドの奥に向かって噛まれた手を突っ込む。そうするとイヌは驚いて口を開ける。そのスキに手を引くというのが正解。

 ボクも我が家のマロンの機嫌を損ねて、何度か噛まれたことがある。小型犬でも結構痛い。今度こそ試してやろうと思っているが、いつも反射的に手を引いてしまう。

 危機に直面したときにはただ逃げるというのはダメなのだ。状況を冷静に分析して、勝てそうにない相手であっても一発反撃を食らわしてから退散しても遅くはない。

 『島津奔る』(池宮彰一郎)を読んだ。

 21macgyas2l 朝鮮の役で『鬼石曼子』と恐れられた島津義弘は、関ヶ原の戦いでは西軍につく。勝敗はすでに決した。そのとき敵中深くで孤立していた島津軍の精鋭1500人は、敗走するかと思いきや、大胆にも数万の敵軍中央を突破するという離れ業を演じる。一時は家康の本陣に100mほどの距離に迫り、東軍をあわてさせたらしい。そして多くの将兵を犠牲にした激しい退却戦の末、義弘はかろうじて生きて薩摩に帰還する。

 敗散した西軍にあって、島津の勇名は一躍全国に轟く。義弘の根底にあったのは時の勝ち負けではなく、島津百年の計。こうして島津家は取り潰しの憂き目に遭うこともなく、江戸時代をしたたかに生き抜いて動乱の幕末を迎える。再起を期するつもりなら、負け方も大切なのだ。何やら今の政治の流れやら企業の存亡にも相通じるところがあるような。

 小心者の徳川家康、官僚主義者の石田三成、保身に走る兄・義久という思いきった人物設定も面白い。戦国武将の内面に鋭く迫る大作。正月休みにでもいかが。

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2007年12月15日 (土)

越冬つばめ

 昨日は久しぶりに車で出勤。

 通勤ラッシュを避けて6時過ぎに家を出る。これくらいの時間帯なら事務所まで40分ほど。途中で東の空が白み始めて、回りの車のライトがだんだん消えていく。渋滞が始まるともう大阪市内は近い。

 ふと、この時間帯を『彼は誰(かはたれ)どき』という古語があったことを思い出した。夕方のことを『誰そ彼(たそがれ)どき』というのと同じように、『彼は誰どき』とは人の姿が見分け難い夜明け頃のこと。

 その昔、深夜に恋人のところへ忍んでいった平安貴族たちは、早朝の別離のことを『後朝(きぬぎぬ)の別れ』と呼んだ。恋人たちが朝を迎えた時の切なさ、寂しさ、それと相反するかのような透明な朝靄からたち込めるみずみずしい空気。この言葉には何とも艶っぽい響きがある。

 信号待ちの間に、眠気覚ましの缶コーヒーをひと口含む。ラジオからは聴きなれたアナウンサーの声。背後から流れる次のリクエスト曲は、イントロだけで『越冬つばめ』と分かる。

 何度聴いても哀感のこもった歌詞が素晴らしく、森昌子の声によく合う。ボクの好みでいうと、演歌ならこの越冬つばめと『天城越え』が双璧。これを歌いこなせる女性はかなりの上級者だが、歌い方にも人生経験の深さがにじみ出る。

 一緒になって口ずさんでいたら後ろのトラックがクラクション。おっと、信号が変わっていた…

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2007年12月14日 (金)

年金

 消えた年金の名寄せ作業が難航しているらしい。

 Techoured社会保険庁は、未統合のまま宙に浮いた約5千万件の年金記録のうち、約2千万件の名寄せ作業が難航しているとの調査結果を公表した。結婚して姓が変わったり、事務処理ミスで氏名などの情報が誤って入力されていることが主因。名寄せには記録の補正作業が必要で、政府が約束していた今年度中の作業完了は難しいという。

 前々から気になっていたので、今日 自分の年金手帳を持って近くの社会保険事務所に行ってきた。

 ボクは23歳から40歳までは厚生年金。その後会社を辞めて大阪に戻ってからは国民年金。途中で仕事や住所が変わっているので年金番号が二重になっていないかどうか窓口の端末で調べてもらったら、ボクの基礎年金番号はちゃんと一元化されていた。やれやれその2千万件の中には入っていなかったらしい。

 ついでに年金の予想受給金額を計算してもらった。ボクの場合は61歳からの特別支給額が年間60万円ほどで、65歳からの老齢年金は現時点では約120万円。今後の加入期間で多少は増えるらしいが、それでも150万円前後だとか。

 だいたい予想はしていたものの、これで食べていくにはあまりにも寂しい老後。もうひと頑張りするか…

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2007年12月 3日 (月)

おごれる人たち

 長女が期末試験の勉強で『平家物語』を暗記している。

  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
  娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
  おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし
  たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ

 ボクが何とか言えるのはこのあたりまで。

 ところで最近はテレビをつけると、この「おごれる人」たちの謝罪会見ばかり…

 白い恋人、亀田兄弟、赤福、NOVA、船場吉兆、マクドナルド、そしてとどめは朝青龍…みんな老舗に胡坐をかいてきたり、自分の力を過信してきた人たちばかり。

 そう思って改めて平家物語の文章を読んでみると、実に人間の本質をうまく言い当てている。人の栄枯盛衰など予想できない。頂点を極めているときにこそ、いっそうの謙虚さが必要である。

 ふと、以前に勤めていた会社の社長の座右の銘を思い出した。
 「実るほど 頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな」

 これもなかなかいい文句である。

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2007年12月 2日 (日)

プラス思考

 コップに半分水が入っている。これを見て「まだ半分ある」と感じる人もいれば、「もう半分しかない」と思う人もいるだろう。楽観主義と悲観主義を比較する有名な話である。

 こんな話もある。靴メーカーの社員2人がアフリカの奥地で市場調査をした。いっぽうの報告は「現地人は素足で生活、将来有望な市場」。他方の社員は「現地人は素足で生活、事業の見込みなし」。靴を履いていないという同じ事実が、とらえ方によって全く正反対の結論になってしまう。

 1年ほど前に、ある中堅ディベロッパーの優秀な営業管理職が、シェアーが低迷している地方へ異動になった。てっきり左遷かと心配したが、未開拓地で頑張って成績を伸ばしているという噂を聞いた。そういえば最後に転任のあいさつに来たときに、双眸が輝いていたのを思い出した。彼は異動先のマーケットに無限の可能性を見たのだろう。

 人生の残り時間もプラス思考で考えたい。定年後の人生にしても、ポジティブに生きるかネガティブに生きるかで、生き様の濃淡が違う。晩年に実りの多い人生を楽しむには、プラス思考で生きるしかない。

 自分自身の人生観を確立すること。エラそうにいえば、これが50代の目標である。

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2007年11月23日 (金)

モーニングコーヒー

 今日は3連休の初日。

 早起きして試合に行く長女を羽衣(高石市)まで送ってきた。阪神高速堺線経由で片道1時間ほど。途中で夜が明けたが、風は冷たそうだ。

 事故渋滞に巻き込まれて、帰宅したのは9時過ぎ。妻と次女はちょうど出かけた後だった。

 とくに約束もないが、たまった仕事を片づけようと思って事務所に向かった。通勤電車に乗っていたら妻からメール。

 「今OBPのプロントにいるんだけど来ない?」
 「コーヒーおごってくれるなら行くよ(笑)…」
 「ハハハ…いいわよ」

 ということで、大阪城の見える特等席で200円のアメリカンコーヒーをご馳走になった。平日の喧騒がうそのようで、店は閑散としている。ガラス越しに陽光が差し込む店内は暖かいが、落ち葉の舞う舗道を行き交う人たちは首をすくめている。残ったコーヒーを一気に飲み干すとメガネが湯気で曇った。もう冬も近い。

 二人で20分ほどいただろうか。まわりを見回すと、散歩の帰りにモーニングセットを食べている夫婦連れが2組ほど。たいした会話を交わすわけでもないが、こうしたスローな時間も悪くない。

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2007年11月 7日 (水)

男たるもの・・・

 民主党のドタバタ劇を見ていて思うこと。

 いい男の条件とは、決断力と情熱と、もうひとつ言えば遊び心を持っていること。優しさとか頭の良さとか経済力とか外見とかつまらないことを気にする人がいるが、みんな違う。そんなものは決定的要素ではない。

 ボクがもし女なら、人生のここぞという正念場で果敢な決断ができる男に惚れる。決めるまでは大いに悩めばいい。他人の意見を参考にするのもいいが、最後は自分の判断。熟慮したうえでの断行。決めたからには退路を断って、信じた道をまっしぐらに突き進むだけ。

 それにつけても、今回の小沢代表の辞任表明はいったい何だったのか。ふと7年前の加藤の乱のぶざまな姿が重なる。いったん辞任を決めておきながら、説得されて翻意するとは何ごとか。見苦しくて男の風上にも置けない。

 辞めるならスパっと辞める。また辞めるという人間を、周囲も未練たらしく慰留などせずともいい。覆水はもう盆には帰らない。求心力を元に戻すのは並大抵のことではない。

 一連の行動は男の美学に反する。民主党は他に人材がいないのか。こんな体(てい)たらくでは、政権奪取も夢のまた夢である。

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2007年10月30日 (火)

江川と小林

 あの黄桜のコマーシャルには驚いた。

 かつては小島功のお色気マンガ。その後も黄桜の広告は、次々と艶っぽい女優を使って独自の世界を作ってきた。
 Ke02
 それが何と今回は、江川と小林のドキュメント風CM。もう『空白の一日』事件なんて言っても若い人は知らないだろうが、あれ以来28年ぶりの対面だとか。

 相当この広告には力が入っているらしく、新聞などは1面の半分くらいを使っている。キャッチコピーは「時を結ぶ 人を結ぶ」と意味ありげ。広告の見出しには、
 「一生、話をすることはない、と思っていた。」
 「一度でいいから話をしたい、と思っていた。」
とある。

 この空白の一日というのは、巨人が浪人中の江川と野球協約のすき間を狙って入団契約をした事件のこと。社会的影響を重くみたセリーグはこれを無効としたため、巨人はドラフト会議をボイコット。そしてそのドラフトで江川を1位指名した阪神が、巨人の小林とトレードすることで衝撃的な決着をみた。江川は世間から非難され、同情を一身に集めた小林は移籍1年目で最多勝。とくに古巣・巨人に対しては8勝0敗という神がかり的な強さを発揮した。

 これ以来、江川にはダーティーなイメージがつきまとう。もうそんな忌まわしい事件は思い出したくもないが、これをちゃっかり出演料に変えているところがいかにも江川らしい。

 いっぽうの小林は今どうしているのだろう。早々と現役引退した後は、参議院選で落選したり自己破産したりと、あまり運にも恵まれていない様子。

 しかし、だからといってこんなCMに出ることもないだろう。
 二人の座る位置の微妙な距離感が、小林の迷いを象徴しているように見えてならない。大枚積まれても、ボクなら絶対出ない。

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2007年10月26日 (金)

小学校の同窓会

 昨夜帰宅したら、机の上に手紙が置いてあった。

 少し厚手の封筒に、きれいなペン文字で宛名書きがされている。裏返して差出人を見たら女性の名前。でもまったく心当たりがない。いったい誰だろうといぶかって封を切ったら、ひと月ほど前に行われた小学校の同窓会の写真が何枚か入っていた。

 あっそうか。差出人の女性は結婚して苗字が変わっていたから誰だか分からなかったのだ。

 写真を手にとって、一枚ずつながめてみた。あのときは薄暗かったからあまり気づかなかったが、最近のデジカメは高性能で、それぞれの酔った顔に刻み込まれた年輪をハッキリ映し出している。その中の自分の姿を見ても、そこに自然に埋没していて違和感のカケラもない。

 このメンバーの卒業式の様子を、当時8ミリが好きだった父が撮影していた。保存が悪くてフィルムがヒビが入って割れかけていたのを、数年前にVHSビデオにダビングしてもらった。いつだったか友達の家でこれを再生したら拍手喝采。さすがに動画は子供たちの表情を生き生きと捕えている。

 あの時代の8ミリは音声は別だった。ボクが卒業式で読んだ答辞を録音した音声テープも残っているが、これはカセットテープが出現する前のオープンリール。あの頃の自分の声を聞いてみたいが、さすがに今では再生のしようがない。もう役にも立たないだろうが、かといってこういう古いものは捨てられない。

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2007年10月 2日 (火)

距離感

 他人(ひと)との距離感というのは難しい。

 誰でも自分の心の中に土足で踏み込まれると不愉快になるが、物理的な空間でもそれと同じような領域がある。動物でいえば『なわばり』、人間だと他者に侵入されると不快になる空間、これをパーソナル・スペースというらしい。

 関西人はだいたいこの距離が短い。親しくなると遠慮なく懐に飛び込んでくる。何でも開けっ広げに話すし、相手のことも何でも知りたがる。家族でも友達でも男女の関係でもそういう傾向が強い。こういうタイプの人には、隣に誰が住んでいるのかも分からないような高級マンションでのセレブな生活は向いていない。

 ボクは大阪生まれだが、どちらかというとこの接近戦は苦手だ。ボクシングならヒット&アウェイ。ふだんは適当な距離を保って傍観しつつ、必要なときだけ近づくというのがいい。

 なかなか腹を割って話せる友達ができないし、ときには冷たいヤツだと思われる。でも悪気があってそうしているわけでもない。少し離れたほうが相手のことがよく見えるし、何よりも気楽でいい。

 必要以上に他人(ひと)と群れることも性に合わない。できれば休日は放っておいてもらいたい。集団社宅だとか社員旅行などというのもマッピラ御免。福利厚生とやらに使うカネがあるのなら給料を上げてほしいと思う。

 協調性があるように誤解されているが、本当はワガママな人間。一度限りの自分の人生なら好きなように生きたい。自分の好きなものを食べて、最期は好きなように散りたい。

 きっとこんな人間は組織には向かない。もう少し歳をとればさっさとリタイアーして、どこかの山中で晴耕雨読の隠遁生活をするのが夢。 

 このブログの更新が突然止まったら、きっと人知れず朽ち果てている時である。

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2007年9月26日 (水)

懐かしいもの

 懐かしいもの・・・

 エポック社の野球盤。ボンネット型の市バス。中学時代に使っていたアルミの弁当箱。マディソンスクウェアバッグ。幸福駅の切符。ジッポーライター。山口百恵のラストコンサート。

 往診に来る医者のクレゾールの臭い。氷まくら。少年マガジンの創刊号。小学校の石炭ストーブ。修学旅行専用列車『希望号』。まだ歌詞カードがあった頃のカラオケ。独身寮の卓球台。インベーダーゲーム。

 怪傑ハリマオ。ビー玉を入れていた宝箱。運動会のハチマキ。中学の英語の先生が持っていたオープンリールのテープレコーダー。大阪万博のガイドブック。地上にあった頃の京阪三条駅。その三条から大津行きのチンチン電車(京津線)。

 紙芝居。こたつアンカ。おしゃべり九官鳥。給食の脱脂粉乳。学生服の金ボタン。北アルプスのテントから寝転がって眺めた満天の星。卒業写真。500円札。

 あたり前田のクラッカー。跳び箱やマットが積んである体育用具室の石灰の臭い。親知らずの抜けた歯。ユースホステルの会員証。掛布・バース・岡田のバックスクリーン3連発。ルービックキューブ。

 マーブルチョコレート。貸本屋。鉄筆で書いてガリ版印刷した学級新聞。大学時代に住んでいた下宿のカギ。礼文島桃岩から望む利尻富士の雄姿。手打ちのパチンコ台。VANの紙袋。新生児室で見た子供の寝顔。

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2007年9月24日 (月)

男の涙

 ヤクルト古田監督の退任会見を見た。

 記者の質問に口ごもり、最後は涙で言葉にならなかった。テレビカメラがその表情を容赦なく大写しでとらえる。無言のシーンが長々と続き、カシャカシャとシャッター音だけが空しく響く。こんな場面は適当にカットしてあげるのが思いやりというものだ。万感胸に迫る思いがあふれ出したのだろうが、見ている方が気恥ずかしくなって目を背けてしまった。

 生身の人間であれば喜怒哀楽もある。野球評論家のハリさんは男が人前で涙を見せるのが嫌いで、いつも厳しく「喝(カーツ)!」を入れるが、ほとばしる感情を素直に表現するのも悪くはない。しかし知将古田には涙は似合わないと感じた。不本意な成績に断腸の思いだったのかもしれないが、捕手と監督との二足のわらじはしょせん無理。でもまだ彼は燃え尽くしたわけではないのだから、再起を期してゆっくり充電してほしい。

 だいたいボクは、男の涙というのはあまり好きではない。

 山一証券が経営破綻したときに、当時の野沢社長が、
「社員は悪くないんです~」と号泣して謝罪する場面があったが、これこそ醜態の最たるもの。だいたいトップが泣いてすむ話ではない。泣くならすべてを終えてから、柱の陰でそっと涙を拭うのが
昔ながらの男の美学である。

 先日の安倍さんの涙ウルウル退任会見にしても、あまり格好のいいものではない。ちょっと古い話だが、細川さんが電撃的に政権を投げ出したときのほうがまだスマートだった。

 男の涙で忘れられないのは、何といっても清原と小錦。

 清原の涙は昭和62年(入団2年目)の日本シリーズ。巨人を相手に3勝2敗と勝ち越して迎えた第6戦。リードされた巨人の攻撃も9回2死走者なし。あとひとりコールが西武球場にこだますると、ファーストの守備位置についていた清原の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ始めた。

 2年前のドラフトで、あこがれの巨人はあろうことかPL同級生の桑田を指名した。裏切られた思いの清原はその怨念を隠して西武入り。それがわずか2年後、その球界の盟主を破っての堂々日本一。二十歳の若者はもう涙をこらえきれない。彼はグランドにこぼれ落ちる涙を拭おうともしなかった。見ているファンにも熱いものが伝わってくる感動のシーン。これを見て、清原の悔しさを改めて知った。

 大相撲では小錦。外国出身力士として初の横綱を期待されたが、怪我が多くてここ一番に弱かった。その彼が昭和62年九州場所で幕内初優勝を決めたとき、勝ち残りの土俵下で思わず涙を流した。当時のマスコミは歓喜にむせぶ男泣きと報じたが、小錦は引退後に「何故もっと早く優勝できなかったのか」と悔しさのあまり思わず泣いてしまった、と説明している。当時は敵役だったこの相撲取りをボクはひそかに応援していたのだが、今にしても価値ある美しい涙だったと思う。

 男は泣くなとはいわない。でも、一生のうちに泣くことはそうそうはないと思うのである。

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2007年9月18日 (火)

同窓会

 昨夕は小学校の同窓会。

 早いもので卒業してから40年以上になる。恩師の誕生祝い(84歳)ということで、同級生45人のうち20人ほどが集まった。

 長い東京暮らしでしばらくご無沙汰を続けていたため、顔を会わすのは卒業以来という仲間も何人かいた。お互い年をとったことに目を見張るが、よく見るとそれぞれ面影は残っている。

 毎回出席するのは、地元に根の生えた自営業者が多い。転勤族のサラリーマンを追跡するのは難しく、残念ながら3分の1近くは行方不明。また早々と2人もあの世に行ってしまったことにも驚いた。

 人生の黄昏どきが近づいた男連中に比べて、女性陣は元気いっぱい。われわれの年代にもなればだいたい子育ても終えて、ヒマとエネルギーを持て余している。早い人なら孫もいて、うれしそうにケータイの待ち受け画面を見せてくれる。親の介護ならぬ亭主の介護をしている女性も2人。そろそろわれわれもそういう年代に差しかかりつつあるという現実に直面させられる。

 小学校のあたりもすっかり変わってしまった。そんな思い出話をしていたら誰かが箸紙の裏を広げて、
 「これが○○文具店、ここが駄菓子屋、こっちが△△クンの家、その隣が散髪屋」
と位置図を描きはじめた。すぐさま回りからいくつも手が伸びてきてペンを奪い合う。あっという間に当時の地図が復元されて、店内に歓声が湧き起こる。

 昨日会った人の名前は思い出せないし、昼食に何を食べたかも答えられない。なのに、この遠い過去の記憶力の正確さはどうだろう。

 久々に子供の心を取り戻しながら、グラスを重ねて夜は更けていく。明日から仕事だとか言いながら、結局お開きになったのは11時前。

 帰りの電車で、恩師からいただいた俳句集をパラパラと眺めていたら、こんな句が目にとまった。
 「教え子も 五十路となりて ビール汲む」
 ご健勝を祈ります。

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2007年8月27日 (月)

縁結び

 仕事柄さまざまなお宅を訪問するが、最近よく相談を受けるのが縁談と養子縁組である。

 男女の縁談は難しい。相手もボクに言うくらいだから、誰にでも頼んでいるのだろう。そう思って、その手の話はサラリとかわすことにしている。

 資産家の老親がいて、婚期を過ぎた息子さんや娘さんがいる。たいていの場合は、ボクがよく知っているのは親御さんで、お子さんとはあまり面識もない。本人をあまり知らないのに他人に紹介するのも失礼な話だろう。

 お父さんと話していると、その娘さんがお茶を出してくれたりする。「この子ですよ」と親が笑う。目尻の小ジワは年齢を隠せない。はにかみながら下がっていく横顔を見ながら、若い頃は縁談話の一つや二つはあっただろうと想像する。しきたりに厳しい旧家だから、親の反対で泣く泣く別れたのかもしれない。結婚は当人だけの問題ではない。あとあとの付き合いを思うと、家格や職業で二の足を踏むこともあるだろう。

 親は子供の幸せを願いつつ、それでも手元から離したくない。結局は親の庇護の下で、社会の荒波も知らずに箱入り息子(娘)のまま年だけ重ねていく。

 ボクはこういう人を何人も知っている。若い頃に勘当されてでも親元を飛び出して苦労するのと、どっちが幸せだったのかは誰にも分からない。

 もう一つの養子縁組。子供のないご夫婦か独身の方から時おり相談があるが、これも難しい。養子になるのはたいていは甥や姪。成人してから籍だけ入れるのは情が通わない。相続権はあっても扶養義務もある。損得だけでの結びつきはだいたいうまくいかない。老後を任せて自分たちが築きあげてきた財産を継がせるのだから、よくよく相手の人物をみて決めて下さいと答えるしかない。

 これから少子化・晩婚化でますますこの種の話は増えていくだろう。本業よりもずっと悩ましい相談である。

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2007年8月23日 (木)

転機

 仕事柄、さまざまな相談をうける。

 もちろん専門分野以外の相談もある。この場合は初めに門外漢であることを断ったうえで、自分の意見をいう。しかし、最後は自分の責任で決断してもらわないとならない。

 もう2年ほど前に、仲のいい友達から転職の相談をうけたことがある。大手企業のサラリーマンである彼は、職場の人間関係に疲れていた。そんなときに後継者のいない親戚から、洋菓子店の跡を継いでくれないかという話が舞い込んできた。迷った彼はボクに相談を持ちかけてきたのだ。

 何度もメールのやりとりをした。決算書の分析もしたが、イエス・ノーを左右するような根本的な問題は隠れていなかった。そのときボクが彼に出したメールの一部を、昨夜たまたま見つけた。今でも自分の考えはまったく変わっていないので、ちょっと紹介する。

 いちばんのポイントは、その仕事を引き継いだ場合に「事業の面白さを感じられるかどうか、夢の実現が可能かどうか」ということだと思う。そして突き詰めると「その夢や自由」と「現在の仕事や社会的地位・収入」とを秤にかけたとき、どちらを選ぶかということだ。

 以下は個人的な雑感。

 会社を辞めるのは簡単。10年前の自分がそうだった。ちょっと状況は違うけど、時間やポジションに拘束されない自由業に憧れがあった。「隣の花は赤く見える」というヤツかも知れない。

 しかし、組織の後ろ盾がなくなると、自分ひとりの力では意外と何もできないことがすぐに分かった。「何でも、自分で考えて、決断して、責任をとる」という当たり前のことができるようになるまで、数年かかった。17年間のサラリーマン生活で、大企業病にかかっていたのだと思う。

 組織に浸かっているとなかなかピンとこないけど、自営業というのは自由であるだけになかなかシンドイ。サラリーマンはしょせんは自分は給料もらっているだけという感覚、自営業はカマドの灰まで自分のモノという感覚、その違いは、辞めてから初めて実感するよ。

 読み返していて、イッチョマエのことを書いている自分が可笑しい。でもそのとおりだ。退職してからのさまざまな出来事がふと脳裏をよぎる。

 そして、その彼は結局会社を辞めなかった。迷った末に組織に残るのも大きな決断。でもあのときの熟慮はきっとムダにはならないだろうとボクは信じている。

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2007年7月16日 (月)

神戸にて

 台風が通過したので、ちょっと車を走らせてみたくなった。

 妻や子供たちと相談したら、垂水のポルトバザールで買い物をした後、神戸で食事をしようということになった。  Tarumi006_3

 ポルトバザールは明石海峡大橋のすぐ近くにあるアウトレットモール。ウチからだと、阪神高速・神明道路を乗り継いで 70kmほど。気晴らしのドライブにはちょうどいい距離である。

 心地よい潮風に吹かれながら散歩や買い物をした後、同じ敷地にある『さかなの学校』で塩つくりの体験学習をさせてもらった。濃縮された海水を30分ほどかけて鍋で煮詰めるのだが、これが結構面白い。

 それぞれ満足して、帰路は2号線を海岸線沿いに神戸に向かう。夕食はポートピアホテルのレストランを予約してある。

 このホテルには思い出がある。今から7年前のクリスマスのこと。ようやく試験に合格したボクはここでクリスマスパーティーをした。少し広めの部屋をとって、料理と飲み物を持ち込んだ。まだ幼かった子供たちは何も分からずはしゃぐだけ。そして合格するまで熟成させてあった極上のシャンパンを開けたとき、妻の目から大粒の泪がこぼれた。退職してすでに5年。自分も苦しかったが、さぞ家族も辛かっただろうと思う。

 この夜がボクの二度目の人生のスタート。ホテルのロビーを歩きながら、そのときのことをほろ苦く思い出した。子供たちが父親の受験生活をほとんど知らなかったことだけが、まだしも救いである。

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2007年7月14日 (土)

南船場の夜

 昨夜、南船場で同業者の勉強会があった。

 3年ほど前から、同業者10人ほどで勉強会をしている。月1回程度で担当は持ち回り。1時間半ほど真面目な勉強をして、その後は近くの店で二次会というのがいつものパターン。

 勉強もさることながら、毎回違う事務所を訪問するというのも面白い。われわれの業界は一匹狼が多いから、たまに他の事務所を見せてもらうと新鮮な刺激になる。

 昨夜の担当者Tさんは、ボクよりひとまわり年下の女性。事務所は地下鉄長堀橋駅近くのデザイナーズマンションのような造りで、住まいを兼ねている。

 人生半ばまで、波乱万丈の経験を積んできた人らしい。そのなかで資格を取って独立開業したのは立派だと思う。

 聡明で美しく、同性からも羨望の的だろう。しかしこういう職業では、美しいがゆえの難しさもあるのではないかとふと思った。

 ボクは同業者団体のある役員をしている。簡単にいえば、同業者とお客さんとのトラブルを仲裁するような役回りである。半年ほど前のこと、あるお客さんからの申し立てで同業者を呼んで面接をしたことがあった。

 その同業者が女性であることは予備知識として知っていたが、応接室に入ってきた姿を見て驚いた。美しすぎるのだ。1時間ほど彼女の話を聞いていたが彼女には何の非もない。どうやらそのお客さんが彼女に邪(よこしま)な気持ちを持ったようだ。しかし思い通りにならず、逆恨みして彼女を訴えることになったというのが事の真相らしい。

 われわれの仕事は、密室でお客さんと二人きりになることも多い。なかにはエネルギッシュな壮年の男性もいる。もし自分が女性であったとしたら、もう少し相手との距離感や接し方にも気を遣うことになるだろう。

 15_2_mapきときと』という富山料理店で食事をした後、彼女の行きつけのバーに案内された。次々と現れる常連客はすべて知り合い。器用に話をふり向けながら近づくでもなし、遠ざかるでもなし。こうして彼女はこの店の優しい空気に浸りながら、浮世の垢(あか)を洗い落として自分自身に戻っていくのだろう。都会の真ん中で、女性がひとりで小舟を操って生きていくのは並大抵のことではない。間接照明に浮き上がった彼女の横顔に言い知れぬ寂しさを見た思い。

 12時前にお開きになって、彼女だけが店に残った。いったい何時まで飲んでいたのだろうか。翌朝、残ったワインのボトルは全部開けましたとお礼のメールが来た。

 男に生まれてよかったかな・・・

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2007年6月12日 (火)

父の誕生日

 今日で父は80歳になった。

 昭和という激動の時代を生き抜いてきた。軍靴の音が響く中で、教育勅語を聞いて育った世代である。育ち盛りの頃には食料事情も逼迫し、満足な食事も与えられなかったはずだ。兄は戦死したが、本人は幸いにしてギリギリで召集されずに終戦を迎えた。

 実家のあたりは空襲で焼け野原になった。廃木を拾い集めて焼け跡からの復興、ヤミ市での物資調達。言葉でいうのは簡単だが、その苦労はとうてい戦後生まれのボクたちにはうかがいしれない。

 母と結婚して、ボクたち3人の子供を育ててくれた。今では3人とも所帯を持って、それぞれ第一線で頑張っている。みんな大阪で暮らしているから、一声かければすぐにでも集まれる。4人の孫たちも順調に成長してきた。年齢相応の衰えはあるものの、これまで大病を患ったこともない。仕事はほとんどボクに任せているから、まあ悠々自適の晩年といえる。

 同世代の人たちと比較したら恵まれた人生だろう。とりわけ若くして戦場に散っていった英霊たちに比べたら、生きて戦後の繁栄を享受できただけでも幸せだ。

 ここまで書いて、幸福とは何だろうかとふと思う。豪邸、高級車、海外旅行、グルメ三昧・・・人間の欲はキリがないが、はたしてそれを追い求めるのがいいのだろうか。

 40年近く前に亡くなった祖母は無類の暑がりだった。でもウチにクーラーがついたのはその祖母が亡くなった後のこと。母がよく「おばあちゃんにクーラーを使わせてあげたかった」と笑う。

 この物質文明の世の中で、後の時代ほど豊かな暮らしができるのは当たり前のこと。でも戦時中でも、粗末な卓袱(ちゃぶ)台を囲む子供たちの眼は輝いていた。少ないモノをみんなで大切に分けて使うという美徳が残っていたのだ。

 それにひきかえ、モノにあふれかえった今の世の中はどうだろう。カネがすべてで自分さえ良ければという風潮が強い。その中で利己的なマネーゲームに走る若者が増えてきている。

 ボクたちは戦争を経験したわけでもない。でも、そうかといって大量消費時代の申し子でもない。そのわれわれ世代が伝えていかねばならないのは『人に感謝する謙虚さ』ではないか。父の横顔を眺めながら、そんなことを考えていた。

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2007年5月29日 (火)

ラストメッセージ

 松岡農水相の自殺には驚いた。

 以前から悪い噂の絶えない人で、安倍内閣のアキレス腱になるのではないかと思っていた。およそ自殺などには縁のない強面(こわもて)タイプに見えたが、さすがに連日の国会質問で心労がたまっていた