2008年2月10日 (日)

『日本への遺書』

 連日ギョウザ問題の報道が続く。

 一歩間違えば命にかかわることだから、徹底的に真相究明をしてほしい。

 意図的な故意犯であることは明らかだが、殺虫剤はいったいどの段階で混入されたのか。つい先日、中国側検査当局の高官は「中日関係の発展を望まない極端な分子によって引き起こされた可能性がある」と述べている。すでに中国政府は精度の高い情報をつかんでいるのだろうが、下手をすれば外交問題にもなりかねない。

 輸入頼みの食料事情。水際の検疫体制や健康情報を集約するシステムの整備不足。不測の事態が起きたときに食料を確保するための安全保障も心配だ。

 いうまでもなく今の日中関係は、明治以降の不幸な歴史が土台になっている。韓国(朝鮮)にしても中国にしても、虐げられた側からみたら、もう過去のことだという単純な割り切りはできないだろう。

 戦後、日本で亡くなった陶晶孫という文筆家が『日本への遺書』という作品を書き残している。

 日清戦争後、中国では空前の日本留学ブームが起きた。 そのなかで日本に留学した陶晶孫と、たったひとりの日本人留学生として中国・広州に渡った草野心平が、上海でめぐり逢う。 このふたりの軌跡を追いながら、日中戦争という苦難の時代に両国の架け橋になった人びとを掘り起こす話は興味深い。

 今よりもはるかに難しい時代だったはずだ。その渦中で、時の流れに翻弄されながらも、お互いの国を愛し、両国の平和を願った日中の留学生たち。それぞれの乗った船が大きく舵を切ろうとする中で、懸命にその流れに抗おうとする若者たちの姿は感動的。ときにはそうした蟷螂の斧が新しい時代の扉を開くことだってあるのだ。

 一昨日、久々に八重洲ブックセンターに立ち寄ったら、入り口にベストセラーが平積みしてあった。そのNo1は『大人の見識』(阿川弘之)。帰りの新幹線で読んでいたら、この陶晶孫の話が出てきて、日本人に欠けている心情としてユーモアとメランコリーの2つを挙げている。

 ちなみに、これを備えた最後の政治家は吉田茂だったとか。マッカーサーとのやりとりで、
「GHQとは何の略ですか?」
「ジェネラル・ヘッド・クォーターズの略で」
「ああそうですか。私はまた Go home quickly かと思っていました」
なんていう人を食った話はなかなか可笑しい。

 戦後処理の外交交渉の難しさは想像もつかない。明治維新にしてもそうだが、あの震えるような緊迫感が人を伸ばすように思えてならない。国家存亡の危機は、有為の青年を育てる好機でもある。逆に平和であることは、大きなエネルギーを生まない。

 こうして考えると、ギョウザ問題もギョウザだけの話ではないのである。

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2007年10月21日 (日)

真田太平記

 『真田太平記』(池波正太郎)を読み始めた。

31487723  きっかけは、この夏に松代に行ったことと、NHK大河の『風林火山』を見ていて真田幸隆という武将に興味を持ったこと。

 もう20年以上前に、NHKが連続ドラマ化したことがある。丹波哲郎(真田昌幸)・渡瀬恒彦(真田信之)・真田幸村(草刈正雄)というキャスティングで、1年近く放送していた。平日の夜8時からだったのでほとんど見る機会はなかったが、たまたま早く帰ってきた日に見た断片的なシーンがおぼろげに頭に残っている。
 
  この小説は池波正太郎の代表作とされていて、8年間も週刊誌に連載されていたとのこと。その年月の長さだけでも驚異的で、書く方も読む方もその根気に恐れ入る。文庫本だと全12冊。各巻500ページはあるから、最後まで読めば6000ページの大作である。来月いっぱいくらいは充分楽しめそうだ。

 NHK大河の風林火山では、権謀術数に長けた真田幸隆が武田・北条・上杉という強国のすき間を巧みに生き抜いていく姿を描いているが、この真田太平記のほうはもう少し時代が下がって、幸隆の子の昌幸と、さらにその子の信之・幸村兄弟が主人公。豊臣と徳川という二大勢力のあいだにあって、信州の小さな領国を守る真田家の命運を基調に展開されていく。

 やっと2冊目を読了したところ。まだ先は長い。

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2007年8月29日 (水)

子役の話

 最近またNHK大河ドラマ『風林火山』を見ている。

 配役に不満があってしばらく見限っていたのだが、夏休みに川中島の近くまで旅行してきたこともあって、引き戻されるようにまた見始めた。野球中継も終わった日曜の夜10時(BSでの再放送)から、たいていは自室のパソコンでゆっくり番組のホームページと見比べたり、登場人物を調べたり、城や戦場の古地図を確認したりしながら楽しんでいる。

 自分が年をとったからかもしれないが、それにしても武田晴信(市川亀治郎)と長尾景虎(Gackt)は子役にしか見えない。

 ついつい比較するのは『天と地と』(1969年)と『武田信玄』(1988年)。『武田信玄』はともかく、『天と地と』のときは中学3年生。かなり歴史の好きな子供だったから海音寺潮五郎の原作も読んでいたし、主要な配役はほとんど覚えている。

 主人公の謙信役は若かりし石坂浩二で、甘いマスクがいかにも軽くて子供心にもミスキャストだと思った。このとき謙信の少年時代を演じたのが歌舞伎子役の中村光輝(今の中村歌昇)。とにかくうまくて「石坂浩二に代わるな」という投書がヤマほど来たらしい。

 ちなみに当時の布陣は長尾為景(滝沢 修)、宇佐美定行(宇野重吉)、乃美(樫山文枝)、長尾政景(山口祟)、飛び加藤(米倉斉加年)と重厚そのもの。インターネットで当時の新聞を調べたら、裏番組には『黒部の太陽』『旅がらすくれないお仙』『コント55号 裏番組をブッ飛ばせ』など。またこの年の5月には『アポロ11号月面着陸』の特番もあったらしい。いやぁさすがに古い。

 大河ドラマのように生涯を追いかけるドラマでは、必ず子役が使われる。でもこのキャスティングや切り替えの時期は難しい。だいたい大河ドラマでは唐突で、イメージが違いすぎる。唯一面白いと思ったのは『独眼流政宗』(1987年)で、政宗の妻役の愛姫が子役の後藤久美子から桜田淳子に切り替わったときのシーン。特撮なのだろうが、クルリと一回転すると見事に配役が変わっていてとても印象的だった。

 子役で思い出すのは『おしん』(1983~1984年)の小林綾子。あれほど人気が沸騰すると、その後の田中裕子も気の毒。さらに晩年の老け役に乙羽信子まで配したのはどうかと思った。まるで別なドラマみたいで、イメージがぼやけてしまう。

 ヒマに任せて川中島の一騎打ちのシーンを調べていたら、あのとき信玄役の高橋幸治はまだ34歳だったらしい。どっしりと床机に腰掛けて軍扇で謙信の太刀を受け止めた姿は風格充分で、とてもそんな若年には思えない。

 自分が幼かったからそう感じただけではあるまい。やたらと目が肥えた口うるさいオヤジを満足させるキャスティングはなかなか難しいだろうとほくそ笑みながら、新内閣の顔ぶれを眺めている。マスコミがいうほどの重厚感はない。どれも小粒にしか見えないのは自分が年とったからだけだろうか。

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2007年6月30日 (土)

龍馬の話

 ボクの好きな坂本龍馬のことを少し書いてみたい。

 龍馬の魅力は、何といってもその人並み外れた先見性である。欧米列強に脅かされていた幕末の日本で、一介の浪人である龍馬が藩という枠を超えて縦横無尽に動き回って維新回天の扉を開いた。既成概念にとらわれない自由な発想や志高い生き方は、今も多くの人々の心を引きつける。

 亡くなった河島英五に『竜馬のように』という曲がある。

 なかなか素敵な詞で、龍馬の魅力を「心斜め15度に傾けて」という言葉で表現している。仲間の志士たちが幕府を倒すことだけに気を取られていたのに対して、龍馬は倒幕後のこと、つまり心斜め15度傾けた少し先のことを考えていた。新政府の『新政府綱領八策』のモデルとなった『船中八策』を作っていたのはこの龍馬である。

 面白いのは新政府の役職名簿まで考えていたのに、そのなかに自分の名前がなかったこと。おそらく彼の心は大海原の彼方に広がっていたのではないか。心斜め15度先には、士農工商のような身分制度のない国、貧しい出自でもあっても能力さえあれば入れ札で将軍になれるという民主主義の国、七つの海を自由に往来して貿易ができる国、そんな新しい国の姿があった。

 『龍馬の明治』(中津文彦)というのは、もしも龍馬が生きていたらという仮説をもとにした歴史シミュレーション小説。歴史にもしもはありえないが、彼の構想どおりの新政府ができていたら、明治以降の日本の歴史は大きく変わっていたに違いない。

 今年の春、高知の桂浜で龍馬の銅像を見てきた。誰が作ったのかは知らないが、銅像の龍馬の目ははるか太平洋の先を見据えている。その茫洋とした姿はとてつもなくスケールの大きなこの男に似合っている。

 龍馬を扱った本はヤマほどある。そのなかでいちばん面白いのは『竜馬がゆく』。その司馬遼太郎が龍馬を評していう。「この男の背骨はバネでできているらしい」

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2007年5月10日 (木)

赤心

 ボクは幕末の歴史小説を読むのが好きで、最近、勝海舟という人に凝っている。

 大政奉還をまとめ上げたこの最後の幕臣は膨大な著作物を残しているが、歯に衣着せぬ物言いは心地よく、維新の元勲に対しても辛辣な評価を下している。

 その彼が、唯一ほめあげているのが西郷隆盛。
 「南洲(西郷)はともかく大胆識と大誠意が破格で、その大度洪量は相手の叩く度合いでしか動かない」とまでいう。

 勝も西郷も、無益な戦いは避けたいということで一致していた。しかし官軍主流派の勢いはとどまるところを知らない。何としても江戸を総攻撃して革命の狼煙(のろし)をと気勢を上げている。そんな緊迫した状況下で、両者の会談が行われた。

 勝は『氷川清話』で、このときの様子を語っている。
「当日のおれは、羽織袴で馬に乗り、従者一人をつれて、薩摩屋敷に出かけた。いよいよ談判になると、西郷は俺の言うことをいちいち信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。『いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします』。西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いろいろうるさく責め立てたに違いない。しかし西郷はそんな野暮なことは言わない。大局観を達観し、しかも果断に富んでいたのには、おれも感心したよ」 

 勝は西郷の度量の大きさに打たれ、西郷は勝の先見性と視野の広さに感じ入った。その結果、江戸城は血を流さずして明け渡され、江戸は総攻撃の戦火から救われたのだ。勝と西郷という偉大な政治家がいたからこそ、日本は内乱による疲弊を避けることができた。

 その勝海舟が好んで使うのは『赤心(せきしん)』という言葉。「嘘いつわりのないありのままの心、まごころ」のことである。つまらない政治資金でスッタモンダしている昨今の政治家にぜひ読んでほしい。

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2007年2月 9日 (金)

チンギスハン

 日経新聞で、『世界を創った男』(堺屋太一)というチンギスハンを主人公にした小説が連載されている。

 映画化されて話題になった”アイルケ”こと『愛の流刑地』の次がこういう歴史ロマンだというのも何だか不思議な感じ。
 はじめのうちはパラパラ読んでいたが、あまりにも展開が遅いのでイヤになってやめてしまった。

 ボクは連載小説とか連ドラとかいうのが苦手だ。だいたい一定の間隔をあけて読んだり見たりするというのは性に合わない。一気呵成にいかないとダメなのだ。超大作をぶっ通しで読むのは得意だが、中途半端に時間を置くと気持ちが冷めてしまう。

 チンギスハンといえばやはり井上靖の『蒼き狼』。十代後半に文庫本で何度か読んだ。今年映画化された『地果て海尽きるまで』(森村誠一)も斜め読みしたけど、やっぱり『蒼き狼』の感動には及ばない。読んだ年齢の違いかもしれないが・・・

 もうひとつ『成吉思汗の秘密』(高木彬光)を忘れてはならない。この推理小説のテーマは『チンギスハン=源義経伝説』。兄頼朝に追われて奥州平泉で討たれた義経は、本当は生きのびて北海道から中国大陸に渡ってチンギスハンになったという壮大な伝説。これを名探偵・神津恭介が検証していく。

 歴史学者には否定されているが、物語としては面白い。こじつけ臭いが、成吉思汗という名前は、義経の最愛の女性である静御前へのメッセージだという。成吉思汗という名前を漢文調に読み下すと「吉成りて汗を思う」。これを強引に解釈すると「吉野山の約束成りて、水干(白拍子の着物 つまり静御前)を思う」と読める。義経は「成吉思汗」と名乗ることで遠く離れた静御前にメッセージを送っていた。若かったボクは、この謎解きに夢中になったものだ。

 話は変わって、ジンギスカン鍋の話。

 ある人が横綱・朝青龍に「ジンギスカン鍋は好きか」と聞いたらしい。朝青龍は怒った顔で「ジンギスカンはわれわれモンゴル人にとって神ともいうべき英雄です。料理の名前につけることなど考えられません」と答えたという。ということは、ジンギスカン鍋はれっきとした日本料理なのだ。

 あのふてぶてしい大横綱がそんな殊勝なことを言うのが可笑しくて、朝刊を開くたびにいつもその話を思い出す。

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2007年1月13日 (土)

風林火山

 NHK大河ドラマの『風林火山』を見た。

 若い頃に井上 靖の原作も読んだ。ボクは歴史ドラマの場合、たいてい原作を先に読む。すると自分の中で、主人公や登場人物の姿かたちができてしまう。

 そしてそれから、ドラマの配役と自分のイメージとを重ねてみる。歴史上の人物には適役というのがあって、あまりにイメージがかけ離れた役者を使われるとチャンネルを代えたくなる。

 主人公の山本勘助は『甲陽軍鑑』では軍略と築城に長けた信玄の参謀として描かれている。でも実在性を否定する意見もあって、本当のところはどんな人物だかよく分からないらしい。ただし、内野聖陽の勘助はカッコ良すぎる。以前に民放の同名ドラマでは東野英治郎、映画では三船敏郎が重厚な勘助を演じていた。中井貴一の『武田信玄』(1988年)では西田敏行。これはいくら何でもくだけ過ぎだと思ったが、いずれにしても勘助は二枚目ではなかったようだ。

 今回の配役を見ていると、武田家の諸将には厚みのある布陣を配しているが、肝心の信玄と謙信が若くて軽すぎる。特に謙信には失望した。

 上杉謙信は、戦国期で最も好きな武将。鬼神と恐れられた謙信は戦(いくさ)には滅法強い。生涯負けなし。人質や調略を好まず、越後の精兵を率いて電撃的な正面突破を得意とした。北信濃の豪族たちから助けを請われて川中島に出兵したり、はるか関東まで遠征して小田原城を囲んだりもしている。敵に塩を送った美談は有名だが、この時代には珍しく倫理観の強い武将だった。

 しかし残念なことに、歴代のNHK大河では適役に当たったタメシがない。なかでも『天と地と』(1969年)の石坂浩二はヒドかった。この人は年をとってから柳沢吉保や納屋蕉庵などを演(や)らせると味が出るようになったが、若い頃の甘いマスクは謙信の豪胆さとはほど遠い。むしろこのときの敵役・信玄の高橋幸治に謙信をやらせてみたかった。長尾政景の山口 崇、飛加当の米倉斉加年など脇を固める芸達者たちも輝いていて、余計に主役の違和感だけが浮き彫りにされていた。

 『武田信玄』での謙信役は柴田恭兵。このときも、どうしてまたこんな時代劇のセリフも満足に言えない役者を使うのかと情けなくなった。

 はじめの話に戻って『風林火山』。見る前から文句を言うなといわれそうだが、ボクはドラマの成否は半分はキャスティングで決まると思っている。意外性に期待しましょうか・・・

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2006年11月17日 (金)

はまり役

 このあいだの日曜日の夜、家でNHK大河ドラマ『功名が辻』を見ていた。

 関が原の合戦の後 石田三成が処刑されるまでの『三成死すとも』という後半全体のクライマックス場面。しかし見ていてどうも違和感がある。中村橋之助が演じる三成が重たすぎるのだ。

 ボクは三成に対して、嫉妬深く臆病で、計算高い小身者という陰性のイメージを持っていた。でも、これは後の徳川政権によって作られた虚構かもしれない。

 司馬遼太郎は、三成を「近代人のにおいがする」と弁護する。堺屋太一は「もし秀吉が長生きしていれば、三成は治世の名臣になったのではないか」とまで持ち上げる。江戸幕府の御用史家によって『豊臣家を滅ぼした佞臣』といったレッテルを貼られたこの能吏は、もし豊臣政権が続いていたら優れた官房長官として歴史に名を残したかもしれない。

 大将の器ではないが、補佐役として敏腕をふるった実務家。領民から慕われる有能な行政官僚で、血の気が多い太閤恩顧の武断派たちとはソリが合わなかった知性的な人物像が浮かび上がってくる。

 歴史ドラマにははまり役というのがある。
 大河ドラマをざっと調べてみたら、これまで三成を演じたのは、石坂浩二から始まって、中村敦夫、近藤正臣、宅麻 伸、石浜 朗、鹿賀丈史、奥田瑛二、伊武雅刀、江守 徹・・・ このうち肖像画には江守 徹がいちばん似ていて、実証主義者のジェームス三木の意向を汲んだとか。でもボクのイメージでは石坂浩二がイチオシ。『天と地と』での上杉謙信はまったくのミスキャストだが、この三成や柳沢吉保なんかを演(や)らせると何とも味が出る。ただし当時はまだちょっと若すぎた。

 このはまり役を揃えた大河ドラマを期待しているのだが、この話はまたいずれ・・・

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2006年8月 2日 (水)

戦争責任

 昭和天皇の発言メモをめぐって、また世間が賑やかになってきた。

 先日の日経のスクープ記事は、どういう意図であのタイミングで出されたのだろうか。聞くところによると、もう3ヶ月前から情報を握っていた由。それを8月15日が近づき、自民党総裁選に向けての動きがあわただしくなってきたこの時期を待って公表するというのは、少なからず政治的意図を感じる。

 でも、あのメモを読んでいると、昭和天皇の人間味溢れた肉声が聞こえてくるようで、なかなか興味深い。相撲の贔屓力士や食べ物の好みなどについても発言を控えられていた方だけに、いっそうその思いを強くする。

 そう感じる反面、宮内庁長官ともあろう人なら、この種のメモは自分の墓場まで持っていくべきではなかったかと思う。どういう事情でこのメモが出てきたのかは知らないが、政治的に利用される危険性も考えて、生前に処分しておくべきだった。気がかりなのは、このメモと絡めて小泉総理の靖国参拝が論じられること。また、これを総裁選の争点にすべきではないと思う。

 ボクは幸いにして戦争を知らない。しかし、戦争責任とは何か、東京裁判とは何だったのかと、この10日間ほどずっと考えている。立憲君主制をとった明治憲法下では天皇が最高権力者だったが、いわゆる専制君主ではなかった。だから『ご聖断』とはいっても、輔弼(ほひつ)する取り巻きが悪かったのだろうと思う。でも、もし日本が戦争に勝っていたら、A級戦犯はすべて大英雄に祭り上げられていたはずだ。つまりこの戦犯というのはあくまで戦勝国からみた評価であって、われわれ日本人までもがその判断を鵜呑みにする必要もないような気もする。

 軍靴の音が高らかに響き、戦況報道に日本中が沸きかえっていたあの時代は、国民全体が一種の集団催眠にかかっていた。A級戦犯とて、私利私欲で日本を戦争に導いたわけでもなかろう。彼らにだけ責任を被せて分祀すればいいという考えには、ボクは賛成できない。

 今年も終戦記念日が近づいてきた。

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2006年5月31日 (水)

西郷隆盛

 一昨日 引き際の難しさの話を書いたが、書き終えてから、何の脈絡もないが西郷隆盛のことをふと思い出した。

 歴史上で好きな人物を何人か挙げるとしたら、幕末では坂本竜馬と並んで西郷隆盛は外せない。坂本竜馬の先見性についてはまた稿を改めるとして、西郷隆盛が好きな理由は、私利私欲のない純粋さと懐の深さに尽きる。そしてあの茫洋とした風貌。

 征韓論が新政府に容れられず野に下った西郷を追うように、不平士族たちが鹿児島を目ざす。一触即発の緊張が漲(みなぎ)り、西郷は敗れることは分かっていても立たざるをえなかった。そこには、もう勝算などなかったと思う。

 下野してもなお人望がありすぎた西郷は、身の引き場所を誤った。鹿児島へなど隠遁すべきではなかったのだ。そして、彼を慕って人が集まり、否応なしに反乱軍の総大将に祭り上げられる。

 ボクは、政府軍に追い詰められて城山に篭った西郷の最期の言葉が好きだ。司馬遼太郎『跳ぶが如く』の描写によれば、

 もう歩く力もなく、死に場所を求めた西郷は傍らにいた別府晋介に、「晋どん、もうここいらでよか。」と言った。別府はその言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き「ごめんやったもんせ~」と大きく叫んで、西郷の首を落とす。西郷隆盛、49歳の生涯の幕切れだった。

 本心は、さぞ無念であったことと思う。しかし恨み言ひとつ口にしない。「もうここいらでよか」という言葉には、彼の大らかさと潔さが溢(あふ)れている。西郷は引き際を誤ったが、美しい最期だったと思う。同じ時期、佐賀の乱の首魁として斬首された江藤新平の往生際の悪さと比べると、いかにも西郷らしいすがすがしさを感じる。その後明治22年の大赦で赦され、正三位を追贈されている。

 改めてその歴史をたどると、人の引き際の難しさを痛感する。爾来130年、いまだに彼が人々の敬愛を集めているのは人徳のなせる業か。

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2005年11月15日 (火)

蘇我入鹿

 昨夜のニュースを見ていたら、蘇我入鹿の邸宅跡が発見されたらしい。

 蘇我入鹿といえば、ボクたちは学校で、大化の改新で暗殺されたワルモノだと教わった。しかし、これは『日本書紀』による勝者の歴史であって、実際のところはよく分からないらしい。逆に、先見性に富んだ有能な政治家で、政界の主導権争いに敗れて暗殺されたと評した本もある。いつの時代でも、時の権力者は、自己正当化のために敗者を誹謗する。それは、お隣りの韓国や中国の近代史を見ていてもよく分かる。しかし、評価が固まって時間が経ちすぎると、それをくつがえすのはなかなか難しい。

 戦前、皇国史観というのがあった。天皇家を中心とした歴史の見方で、長年、楠木正成は忠君で、足利尊氏は逆臣とされてきた。しかし、戦後はその価値観が崩壊し、ボクたちが学校で習った歴史だと、足利尊氏は人望ある武家の棟梁として、それなりの評価を与えられていた。

 歴史に、違う視点から光をあてるのも面白い。明智光秀、石田三成、井伊直弼などは典型的な悪役だが、本人の側から掘り下げてみたら、また違う真実が見えてくるかもしれない。

 プロ野球界では、今春、永久追放処分を受けていた元西鉄の池永正明投手の復権がようやく叶った。実働6年で103勝、そのまま続けていたら、どんなピッチャーになったかと思うと、今さらながら悔しい。あれから35年、もう充分すぎるほど社会的制裁も受けたし、その復権はあまりにも遅すぎた。

 いっぽう、蘇我入鹿は、大化の改新からもう千四百年近く、ずっと悪人扱いされてきた。今となっては、事の真相は分からないが、こちらも、もういい加減 復権させてあげたらどうだろう。

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2005年7月24日 (日)

判官びいき

 最近、娘と一緒に、大河ドラマの「義経」を見ている。

 ボクとしてはキャスティングに少し不満があるが、視聴率を稼ぐためにはやむを得ないのだろう。逆に娘は、義経役の”タッキー”こと滝沢秀明が目当てらしい。

 大河ドラマはだいたい見ているが、これまでに何度も出てきた人物は、どうも特定の俳優のイメージが強くなってしまう。弁慶は今回の松平健も悪くないが、義経は最初に見た尾上菊五郎(当時は菊之助)の残像が濃い。しかし、実際の義経は反っ歯の小男で、そんなに二枚目ではなかったらしい。後世の人々が、「悲運の武将・義経」を、好男子に仕立てあげたのだろう。昔から「判官びいき」というように、義経は大衆の人気は抜群である。そして、その弟に比べると、頼朝は、非情の兄という目で見られており、いささか分が悪い。でも、大きな視点で見たら、義経は局地的な戦(いくさ)は上手でも、武家の棟梁になれるような器ではなかっただろう。

 「将器」という言葉がある。大将としての器という意味で、武家の棟梁の必須要件である。南北朝の動乱のときに、同じ源氏の血を引いていても、新田義貞には人望がなく、武士はみな足利尊氏になびいてしまった。今風に言うと、人間的な魅力、リーダーシップ、先見性といったところだろうか。歴史に「もしも」はありえないが、もし、義経が後白河法皇と組んで、頼朝を破っていたら、その後の歴史はどう変わっただろうか? 結局、法皇や公家にいいように使われて、使い捨てにされたような気がする。やはり、武家の棟梁としては、頼朝のように、京都から距離を置いて鎌倉政権の基礎固めをするのが正しい選択だっただろう。

 義経には失礼だが、若くして非業の死を遂げたことによって、本来の力量以上の評価をうけることがある。失敗する前に世の中から消えてしまうのだから、非難のしようがない。ましてや身内の兄に追われたことによって、同情も集まる。逆に言えば、まわりから不平不満を言われずに、長期政権を務め上げたり、長い人生をまっとうしたりするのは、相当優れた人物ということになるだろう。仕事でも人生でも、よほどの人でない限りは、惜しまれるうちに適当なところで幕を引くのが、潔いのかも知れない。

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